冬のドイツのクリスマス・マーケット

久しく休んでいたブログですが、サイトも新たにしてくれた友人の為にも久方ぶりに筆を執って見ました。時期的に欧州はクリスマスの時期なので冬のヨーロッパの風物詩、クリスマスマーケットの事を少し。 

クリスマスマーケットの代名刺と言えばドイツ。1415世紀ドレスデン辺りから始まったなどとの歴史があるらしいが、今のドイツでは小さな町や村ならどこにでもある冬の一大イベントです。特に北ヨーロッパのような冬が長く、寒く、暗い地域では何かしらお祭り的なイベントで盛り上げないと、鬱になってしまうのかも。 

残念ながらヨーロッパはテロの多発でツアーが減り、そのためか冬場のヨーロッパツアーが少なくなってきてしまった。この仕事に携わっている私には寂しく感じられてしまう。おりしもベルリンではトラックでクリスマスマーケットの中に突っ込むテロも起きてしまった。またまたツアーが減ってしまうのではと心配しています。それゆえこのブログでは写真をたくさん入れることで興味を持ってもらいましょう。

ドイツのクリスマスツアーなら次の3都市は必ず入っているでしょう。歴史のあるドレスデン、大きさでは一番と言われるシュツッツガルト、面白いのでは一番と言われるニュールンベルグ。

下の写真は左からドレスデン・中央はシュッツガルト・右はニュールンベルグのクリスマスマーケットの夜景俯瞰図。正面奥はフラウエン(聖母)教会

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ツアーでは昼、夕食を入れずに、自分たちで市場の中で食べて下さいというツアーが多い。積極的に現地の人の中に入って食べて欲しいという事です。言葉が心配な人、ジェスチャーで食べ物も飲み物も買えますよ。現地の人との触れ合いが旅では一番思い出に残るのは皆も体験済みでしょう。

下の写真は屋台の様子三店。真ん中の店はホットワインを売る様子

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そこでですが寒い中で皆が食べるのは、やはりドイツらしくソーセージ。ソーセージなら普段はビールかワイン。しかしクリスマス・マーケットではグリュー-ワイン(ホットワイン)という香辛料がたっぷり入った熱々のワインが名物です。それだけこの時期のドイツは寒いのです。でもアルプスに近い都市でない限り冬でも殆んど雪がないので助かる。ソーセージもフルーツなどを練り込んだ「フルテ(フルーツ)ブロート(ソーセージ)」などが良く売られているので、食べて欲しい私一押しのファーストフードです。是非召し上がって欲しい。

下の写真はホットワイン。カップ込みでいっぱい5~8€位。もちろんカップを返せばお金の返金はありますよ。でもカプにはその町の名前が入っているので一番の土産になるでしょう。

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下の写真ははクリスマスツリーの飾りを売る店(代表的な店の一つ)とリープクーヘンとパン屋

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お土産としてはその都市の人形が一般的なのですが、リープクーヘンと言われる香辛料入りのクッキーなどもお勧め。香辛料と共にいろいろな物が入っているクッキーという事で面白いかもしれない。

下の写真はリープクーヘンと果物入りのソーセージなどが売られている屋台 と代表的なソーセージプレート

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ニュールンベルグでは中央広場のフラウエン教会のテラスからその年のクリスマス市の開会宣言をするための高校生{その年に選ばれた美しい女高校生(クリスト・キント=幼児のキリストという意味}を見たことがある。クリスマスマーケトの時期には毎日時間を決めてテラスから挨拶するのでN/Bに入ったら必見。この少女は一年間N/B市の親善大使的な仕事をするので、選考にはかなり厳しい条件があるとの事。ただこの少女が出てくるときはすごい人混なので、中心に入ったら出て来れないことを覚悟。ホットワインで足もおぼつかなく、人の輪から出られず、バスに乗り遅れたなんてことが無いように。

下の写真はニュールンベルグ市その年に選ばれたキリストキントのお嬢さんがフラウエン教会のテラスから開会宣言をする様子と右はニュールンベルグの地図。城壁内のすべての大通りまで店が出る。

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ツアーから帰って来たらさりげなく土産のカップでコーヒでも出して自慢してみては。

「あーら奥様このカップ・ドイツ製ですの!」「そうなんですのよ。なーんですか冬のヨーロッパも面白うございましたわ!!おっほっほ!!」  友達なくすなよー

久しぶりのシチリア島の旅で

シチリアというと一般の旅行客は何をすぐに連想するでしょうか?イタリアの南の先・地中海の真ん中に浮かぶ島・マフィアの島(映画ゴッドファーザのせいか?)この位でしょうか?地図を見ると長靴の先で蹴飛ばされたような面白い格好をしている三角の島ですが。

南イタリアの現状を正確に知っている人はあまりいないでしょう。農業以外の産業はあまりなく、中央政府からの補助金を使っての公共事業で何とか息をついている感じなど、どこかの国の田舎に少し似ていますか? こんな事を知っている人はかなりのインテリ。北イタリアの人たちの中には南を分離して北だけで独立をなどという人達も多いとの事。
でもそれだけに南イタリアには田舎の良さが残っている。それが旅人には何とも言えずロマンを誘う。まずはノンビリ。まさにスローライフ・スローフーズ。現地の食材を使った美味しい食べ物(今回も皆が一番美味しかったといったアグリ・ツーリズモと言う、田舎の美味しいレストランで食べたよー!)、
人間おいしい物が一番。今回のお客様も美味しい食事で皆幸せそうな顔をしていました。
急ぐ必要はないので車はボロでも何とかなるし、テレビは映ればいいし。雨が少ないから家はボロでもいいよってか!そんな生活が南イタリアにはある。まさに「食べて歌って恋をする」てか!これぞイタリア人の真骨頂

 

ただ旅行客が来て一番驚くのが、意外としっかりと残っている古代のギリシャ遺跡(知っていますか、アルキメデスがいたのはギリシャではなく、このシチリアのシラクサで活躍したのですよ)や、アグリジェントにはギリシャ本土よりしっかりギリシャの神殿が残っている事を。写真はコンコルディア神殿
中世に北ヨーロッパから来た征服王朝の遺産(パレルモにあるモザイクをふんだんに使った宮殿や教会)などが我々旅行客の目を楽しませてくれる。勿論映画ゴッドファーザー最後のシーンで使われたオペラ座もちゃんとありますよ。下の写真はパレルモのモンレアーレの教会内部のモザイク
シチリアの位置を見て欲しいのだが、地中海のど真ん中にある。それ故・歴史が始まるとともに色々な人種が入れ替わり立ち代り入っては滅びを繰り返していた。
まずはフェニキア人(シリア・レバノン辺りにいたアラブ系)その中でも北アフリカ沿岸一帯にカルタゴという植民地を作ったフェニキア人は有名(ローマと死闘を繰り広げたカルタゴの猛将ハンニバルは超有名)。時を同じゅうしてギリシャ人、そして2200年ほど前からこの2つにローマ帝国が入り、3つの中でローマが勝ち残り5世紀までローマが栄え、その後はドイツ系のゲルマン・そしてギリシャ系の東ローマ帝国・次はアラブ・そしてノルマンジーのフランス系ゲルマン・あとはスペインとフランス。そして近代へと続く。何とも頭が痛くなる様な歴史を持った面白い所である。
そんな多様な文化を持った国ゆえ旅人の心にロマンを与えるのであろうか?。

 

写真は数あるシチリアのリゾートの中のタオルミーナの古代ギリシャ遺跡と、映画グランブルーで撮られた舞台イソラベッラ湾の「青の洞窟」を載せてみた(この2枚は新潟の佐野氏提供)。
これであなたも少しはシチリアへ行きたくなりましたか。
シチリア良いとこ一度はおいで、マフィアもあなたを待ってるよ(マフィアなんか居ないよー! 青い空、海・美味しい食事があなたを待ってまーす)

パリのノートルダム教会

いつ頃だったろうか。パリのノートル・ダム教会の近くのパーキングに観光バスが入れなくなったのは。昔パリをバスで観光した人は必ず教会の中に入った事を憶えているでしょう。残念ながら今はバスの排気ガスが教会に悪い影響を及ぼすのか、あるいは近所の住民の権利意識が強く、騒音がいやで市長選の公約に上げさせてバスを排除したのか詳しい所は不明ですが、ともかくバスが止まれなくなってしまいました。今では特別なツアーでない限り、中には入らず車窓観光だけとなってしまった。(右の写真は教会の正面)
こんな立派な文化遺跡がしかも無料で入れるのに、これを見ないで帰ってしまうのが私としては残念でならない。それ故これを見た読者はパリに行ったら是非見て欲しいのです。それで今日はこの教会を紹介したい。

一般的な知識:国教と言ってもよいフランス・カトリックの総本山ということで、歴史も古く、平清盛の時代に礎石が置かれ、150年程かけて出来上がったという由緒正しき教会である。カトリックの元締めという格式高い教会で、フランスの教会といえばこの教会といっても過言ではない。勿論総本山はローマのバチカンのお寺ではあるが。

フランス革命後ナポレオンがイギリスを除く欧州を支配した時には武力で抑えたローマの法王を呼びつけこの教会で皇帝となる戴冠式を挙行したし、またしばらくして作家ビクトルユーゴは荒れ果てたこの教会を見て「ノートルダムのせむし男」という小説を発表し世間の注目を向けさせた。そのせいか再び修復も始まり現代に至る。この教会を知らなくても小説の名前くらいは知っている方は多いでしょう。

場所:パリ発祥の地シテ島の真ん中にある。パリはキリストが生まれる少し前ローマのジュリアス・シーザーの時代にローマ化されたが、この島に原住民パリジー族が果敢に抵抗したとガリア戦記に出てくる。それゆえローマ軍も占領後この島に、まずはローマの神々の神殿を立てフォーロ等の広場を作って、ローマ軍のマニュアル通りの町作りが始まりパリは大きくなっていった。

 この島には中世も引き続きフランス王家の最初の王宮、その他重要な建物があった。ローマがキリスト教化され、それが国教になるやこの地にあったローマの神々に代わってキリスト教のお寺が建てられ、その上に今の教会が立っている。つまりこの場所にしてこの教会がある由縁である

ノートル・ダムの名前の由来:フランス語で我々のマダム、つまりキリストを生んだマリヤ様を祀った教会のこと。フランスには各地にノートル・ダムという名の教会が沢山あるので、パリのそれはノートルダム・ド・パリというのが正式な呼び名である。

建物の詳細:時代的にもゴシック建築のはしりで、高く伸ばした柱とそれをつなぐアーチ(ボールト)で教会の屋根を支え、その分薄くなった壁をぶち抜き、そこへステンドグラスを入れるというゴシックの典型的な建築物。

ゴシック教会の特徴:柱を高く伸ばすと重力が外へ倒れる力が働くので、外壁を支えるフライングバットという支え棒が目に付く。この支えは時に見づらく見えるが、N・ダム教会は逆に綺麗に見えるという珍しい教会。特にN・ダムの後ろに回り橋の上からこの教会のフライングバットを眺めて欲しい。この教会ほどバックシャンの教会は他に見当たらない。
(写真左は教会裏側 橋の上から)
外の見どころ

正面ファサード左側:自分の頭を抱えている坊さんの立彫=フランスでまだキリスト教が異端の時代、禁止されていたキリスト教をパリで始めて布教して殉教したサン・ドニ司教の立像。

*伝説では自分の首を持ってモンマルトルの丘まで行き,その場で首を洗ってから倒れたという伝説がある。ちなみにモンマルトルの丘とは殉教の丘という意味もあるらしい。
ファサード正面真中の彫刻群:「キリスト最後の審判」=左側は天国、右側は地獄
○教会の周りにあるガーゴイル像==すべて怪物の顔を持つ「雨とい」=日本のお寺にある狛犬と同じ役目で外から悪魔が入ってこないようにしている。宗教の考え方とはどこも一緒という事。
中の見どころ(写真左は外側の南のバラ窓 写真右は中からの南バラ窓)
南北西の3面を飾るばら窓のステンドグラス=なんと言っても、この素晴らしさは写真では分からない。これを見るだけでも来た価値があると思う。
祭壇後ろにあるキリストの一生を彫った彫刻群。==聖書を読んでいなくても十分に楽しめる。
ナポレオンの戴冠式の絵にも少し描いてある、ピエタ像=キリストの死体を抱きかかえるマリア像(ルイ14世が寄贈)
以上ざっとN・ダム教会の紹介をして見ましたが、ガイドブックではなかなか読みづらいところを易しく書いたつもりですが、解りづらい所があればこのブログに書き込んでください。
追記
教会建築というのは資金的な問題もあると思いますが、大体100年単位で完成するので、完成に至るまで何世代もの建築家達の手を経る物。それゆえ完成手前の時代には建築様式の流行が違うなどの理由で正面ファサードや鐘楼尖塔の左右が非対称の物が多いのに、このN・ダム教会の正面や尖塔は左右対称でとても見やすい。まさにパリの貴婦人らしくとても優雅に見えるのは私だけであろうか。
中世農民達は字が読めないので彫刻や絵などの宗教画を見ながらで坊さんに次の様に説教されたとのこと。
農民「お坊様 神様はどうしたら天国へ導いてくれるのでしょうか?」
神父「それは勿論 教会に献金する事でしょう。それ以外に天国への道はありません」
そうやって農民からお金を巻き上げて教会が太ってしまったので、フランス革命の時、貴族と教会が徹底的に破壊されたのですと。

日本でも有りました「おでいかん様、そんな税金はあんまりでごぜいますだ。それでは百姓に死ねと言う事でごぜいますか!」といって百姓一揆が起きたとさ。最後には「この紋所が目に入らぬか」でおしまいかえ。
もっと早くその紋章を出せよってか!!おっとと水戸黄門の見すぎでしたか。

ニースのカーニバル

カーニバルの時期に南仏からフランス一周の旅に出た。そこで今日はニースのカーニバルの写真を撮ってきたのでそれらを載せてみたい。これらの写真を見て冬のフランスにも足を延ばして見たくなれば思うツボですがいかがでしょうか。
カーニバルといえばリオの裸に近いオネーサン達が踊るサンバやベニスの仮装装束のパレードなどがお馴染みですが、欧州のカーニバルといえばニースのカーニバルが山車の大きさ・規模などで私としては一番に挙げたい。
ここのカーニバルは土日に来ると、メーンストリートで練り歩く山車が面白い。特に土曜のパレードは山車の上から投げられる花合戦がユニーク。冬でも南仏にはこれほどの花があるのだとばかりに投げてくる。流石は花を使っての香水産業の本場を感じさせるパレードである。勿論日曜の山車のパレードはその規模の大きさと種類の多さで十分楽しめる。

カーニバルとはCarne Valeというラテン語から来ている「肉よさらば」という宗教用語である。キリストが磔になった40日前から断食し、派手な事を、或いは華美な食事を慎むという週間があったが、その前に思い切って肉を食べ、酒を飲んで来たる40日の断食に備えようという宗教行事である。
ただ別の説もある。ゲルマン人達の祭りの中で春を迎える祭りがあったが、それをキリスト教を広める宣教師達が自分達の祭りに取り入れたという説である。
冬のヨーロッパをと考えている人は旅行会社のパンフにカーニバルが入っているツアーを選べば入場券込みで売っているので是非トライして欲しい。

 ヨーロッパ人の一番の憧れのリゾート地コートダジュール。その本拠地ニース。夏はトップレスのお嬢さんで鼻の下を、冬は山車の上のお嬢さんで鼻の下を伸ばせる中年にも極楽地。「ニース良いとこ一度はおいでってか」 でも温泉はないよー

ローマでのフリータイムの見どころ2 フォロ・ロマーノ

前回はパンテオン周辺を紹介し、その続きを書く予定だったが、今日は先にローマ帝国の中心フォロ・ロマーノを紹介したい。
今この中に入ろうとすると3つの遺跡がワンセットのチケットを買う事になる。それはコロッセオ、フォロ・ロマーノ、パラチィーノの遺跡の3つである。最もパラチィーノの遺跡はフォロ・ロマーノの続きだし、コロッセオとフォロ・ロマーノも隣です。
コロッセオは言うまでもなく、映画グラディエーターでご存知の人間と人間、人間と猛獣の戦いなどでお馴染み。パラチィーノ遺跡はローマ発祥の丘と皇帝達の館跡である。

さてフォロ・ロマーノとは丘と丘に挟まれた湿地帯だった所を水を抜きローマの中心広場とした所である。全ての道はローマに続くと言うことわざがあるが、この道の最初で最後になる広場ゆえ、この遺跡はローマの最重要地である。
低い所なので上から[ただ見]が出来るので忙しい人はこれからいう私のエッセイ通り行って見てはいかがでしょう。なおフォーラムという言葉はこのフォロという広場から来ている。

まずローマの交通の要所ベネチィア広場のビットリア・エマヌエル2世広場側から500年前にミケランジェロが設計した緩やかな階段を市役所に向かって昇り、その広場の中心にあるグラディエータに出てくるマルクス・アウレリアヌスの騎馬像を右手に見ながら、市役所の横に出てフォロ・ロマーノを見下ろすというやり方である。 (上記左右の写真はフォロロマーノを市役所横から眺め下ろしている)

眼前の眺望の素晴らしさは無料にしては出来すぎ。真ん中を走るメイン・ストリートを勝ったローマ軍団が足を曲げずに凱旋してくる姿が目の前に迫ってくる。ナチスやムッソリーニのファシスト党の行進を記録映画で見ている世代ならば胸にじんと来るはずである。 (右はミケランジェロが設計したゆるやかの階段。この階段を登りきって左側から眺め下ろしてください)

それともう一つ私の個人的な好みだが、目の前に見えている凱旋門の前まで降りて行き、その凱旋門に彫ってある彫刻を見て欲しい。
勝ったローマ軍団が敵の捕虜を鎖につないで引き立てている彫刻と、捕虜が赤ちゃんを抱いて引き立てられている彫刻である。自分の子供であろうか、或いは途中で打ち棄てられていた子供であろうか、棄てていくには忍びなく思わず胸に抱きながらの行進である。まさに色々のことを想像させる彫刻である。

ローマ軍団の雄雄しい姿という人もいれば、えげつない彫刻という人もいる。そんな事を思いめぐらしながら見るとなかなかに楽しいものである。是非トライして欲しい。勿論時間があれば中に入り、2千年前の人々の息吹を感じたり、開いていれば元老院議事堂の中に入ってその空間に想いを馳せて欲しい。
ついでにローマの休日を見ている人ならば、この凱旋門の横はヘップバーンが宮殿を飛び出し寝ていた場所です。グレゴリーペックと初めて出会い、起こされて彼の下宿に連れて行かれたシーンを思いだす人も多いはず。映画を見ている人ならこのシーンの背景はここだ・ここだと思い起こすでしょう。

あなたの「ローマの休日」が映画のようにロマンチックにと願いたいのですが、休みの少ない日本人には「ローマの急日」というわけで、ロマンに出会う前にさようならですか!。
「休日よ さよなら さよなら さよなら! 良い映画でしたね淀川さん」
この洒落わかるかな~ もうわかんねえだろうな

ローマでフリータイムが有れば

この前ローマでフリータイムがあればパンテオンを見て欲しいと書いたが、今日はせっかくそこまで行ったら近くにあるサンタ・マリア・ソプラ・ミネルバ教会と聖イグナチオ教会にも足を運んでもらいたくて,このエッセイを書く。
パンテオンは2千年前のローマ遺跡が一番しっかり残っていると言ったが、上記の2つの教会はルネッサンスからバロックにかけての絵画や彫刻の巨匠達の作品が無料で見られる教会と言いたい。ともにパンテオンからは5分以内で行けるのでお勧めしたい。

(写真左=フィリッピーノ・リッピの受胎告知 写真右=ミネルバ教会)
今回はミネルバ教会の紹介。
ミネルバとはギリシャ神話のアテネ女神の事だが、ローマへ来るとラテン語でミネルバという。名前の通り古代のミネルバ神殿を中世にそのまま教会に直してからその名前の由来となる。この教会は別名ブルーの教会という。それはラピスラズリーという宝石に近い貴重石を天井のフレスコ画にふんだんに使っているからである。入ってすぐ天井を見上げると、天井の青空が見事である。中世に裕福だった教会ならではのフレスコ天井壁画である。

天井壁画が済んだらフラ・アンジェリコの描いた「聖母像」。祭壇正面右側のフィリッピーノ・リッピの描いた「受胎告知」などを見て欲しい。フラ・アンジェリコはルネッサンスの先駆けとしてミケランジェロやレオナルド達に影響を与えた有名な巨匠だし、フィリッピーノ・リッピはビーナスの誕生で有名なボッチェチェリの先生だったフィリィポ・リッピの子供である。特にフラ・アンジェリコやF・リッピの優しいタッチをとくとご覧あれ。疲れた心が一瞬でもなごみますよ。 (左写真=F/アンジェリコ 右写真=フィリッピーノ・リッピ)
それが済んだら祭壇正面の左側のミケランジェロ作の「十字架を抱えたキリスト」を見て欲しい。少々荒削りの彼の彫刻も一見の価値はある。

(左写真=ミケランジェロの彫刻 右写真=聖カテリーナの墓)

時間があったらイタリアの守護聖人の一人聖カテリーナとフラ・アンジェリコの墓もあるのだが特別カトリックの信者でない限り、時間がない人は芸術作品に的を絞って観賞して欲しい。
ちょっと歩くとこんな凄い絵や彫刻などがそこらじゅうに出てくる所がローマの凄いところであり、楽しいところである。
今回近くの聖イグナチオ教会に行ったが閉まっていたので、この教会の聖フランシスコの右腕のミイラは次回に回そう。聖イグナチオといえば聖フランシスコ・ザビエルと並んでイエズス会の創始者の一人で、日本では聖フランシスコほど有名ではないが欧州ではザビエルより有名な人である。 ともかくスペイン階段より15分以内でいける所なので是非トライして欲しい。
スペイン階段あたりはブランド品の店のオンパレード。財布が気になる人は無理矢理彼女を芸術作品の方に引っ張って行ってみてはいかがか。
それでも「グッチやフェラガモを買いたい、ヴィトンもある」と彼女が言ったらどうする。
グッチはアッチ、フェラガモ・カルガモはコッチ・ついでに羽根ヴィトンよりも芸術だーと叫びな!!。

エジンバラ の 「ミリタリー・タトゥー」

今回はイギリスゆったりの10日間のツアーでした。ゆったりツアーだと、いつもはいけない所へ行ける。それが「ミリタリー・タトゥー」というイベントでした。

名前から想像すると軍隊と刺青という訳語がすぐ出るが、タトゥーには帰営ラッパとか太鼓という意味がある。つまり軍隊パレードを主体にしたショーを見せてくれるイベント。

場所はスコットランドの首都エジンバラ城の真ん前。イギリス連邦を中心の軍隊が中心だが、毎年各国の軍隊も呼ばれ行進パレードや花火・そしてちょっとした寸劇や踊りもありという音と光のショーである。特にエジンバラ城をスクリーンにした光の使い方はとても幻想的で、ここでしか味わえない工夫がしてあり飽きさせないショーだ。

今年呼ばれた外国の中ではオランダの自転車による軍隊のショーとドイツから来た軍隊のチロル風のショーが楽しく印象的でした。しかしやっぱり圧巻は地元スコットランドのバグパイプをメインにしたパレードでした。やはりスコットランドにバグパイプはよく似合う。

(写真左上 オランダの自転車部隊)(写真右上はドイツのチロル山岳部隊 ホルンの演奏)

  ショーは夜9時から10時半まで休みなく続き、最後は花火と蛍の光で終わる。久しぶりに感動した素晴らしいショーであった。蛍の光といえばスコットランドの詩人ロバート・バーンズが作った詩に作者不詳が作曲したことは有名。最後に皆がここで立ち上がり花火の中で各国語で歌う「蛍の光は」久しぶりに感激した。歌いながら日本旅行もなかなかやるじゃんと添乗員冥利に尽きた一瞬でもあった。 (写真左右 バグパイプ部隊)
 これからイギリス一周みたいなツアーを考えている方は是非スコットランドの入っている、しかもエジンバラに最低2日泊まってこのミリタリー・タトゥーの入っているツアーを選んで欲しい。 8月とは言え緯度的には樺太の一番北。それなりに寒く雨も多い。雨が降っても傘は使わせないゆえ、ホテルからバスタオルなどこっそり持ち出したりなどの工夫をしてみると良い。8月のイベントゆえ冬用の重いものをトランクに入れたくない人には冬に使うホッカイロを持参するとよいかも。
写真左右上 軍楽隊の間に行われる踊りのアトラクション)

 スコットランドでミリタリー・タトゥー見たよー といえば必ず聞かれる言葉。

  それって何だい!。 そしたら言ってやって「軍隊で皆が刺青するんだー」て、からかうのも面白いよ  
 P/S

でもここでちょっとだけがっかりしたことがある。それはショーの始まる前に行われる各国の観客に向けた司会者の呼びかけで日本人の応えた拍手が少なかったこと。しかも韓国人の後で呼ばれたことである。東洋人の中では中国・韓国・日本の順で呼ばれた。昔なら日本しか呼ばれなかったのに。何とも寂しく感じた一瞬であった。これも時代であろうか。

 この頃入れなくなったカプリの「青の洞窟」


海面から高さ1メートルくらいの洞穴へ入るのがこんなにも難しくなったのはいつ頃からたろうか。若い頃この仕事を始めた頃は冬でも入れていたことを思うと感慨深いものがある。地球温暖化のせいで海面が上がったせいか、少し北風が吹くとすぐクローズするので今では冬は勿論、夏でも簡単ではないようだ。青の洞窟に行くなら風が少なく、かつ満月に近くない日を選ぶと良いのだが、そんな事は旅行者には無理というもの.

洞穴の入り口が狭く、入る時は4人乗りの手漕ぎボートにみな寝転んで入るわけですから、怪我でもして訴えられたら人権が高いヨーロッパでは馬鹿高いお金を取られるので、それだけ難しい。

洞穴を広げたり、海面の波をシャットアウトする壁などは洞窟に入る光の屈折が変わったり洞窟内の青い色が変わるのでなかなか難しい模様。



今回は前日が晴天にも関わらず入れなかったのか、増えてきた中国人観光客やロシア人のせいなのか洞窟前の海のボート上でなんと2時間待たされた。お陰でみな船酔いには悩まされるわ、予定していたカプリ島での自由時間がなくなって大変。洞窟を見てカプリでランチしてそのままローマに帰るという何とも忙しいツアーになってしまった。

最も青の洞窟に入るために3回もイタリアに来たお客様もいたことを考えると、満月近い日に入れた方が奇跡と喜ぶべきか。

この青の洞窟に関して一言。古代ローマ時代の文献があまり残っていないので何ともいえないが、初代ローマ皇帝オクタビアヌス(シーザーが後継者に決めた別名アウグスト=シーザーの姪の子)は自分の持っていたナポリ沖のイスキア島(この島の方がずっと大きく、古代ローマ人が大好きだった温泉が出る)と部下の持っていたこのカプリ島を交換して手に入れたとの事。どう考えても損な取引のはず。

ここはやはりカプリに青の洞窟があったからとしか推論するしかない。噂を聞いた皇帝が一度この洞窟を訪れて気に入ったから交換したとしか考えられない。これ以来このカプリ島はローマ皇帝の別荘島になる。

洞窟が入れないときは島一番高いところからカプリ周辺の全景や真っ青の海や綺麗な公園や中世の貴族の館跡などを見られる。それなりに島の観光も出来るので、南イタリアに足を延ばした折にはぜひ訪れて欲しい。

カプリといえば青の洞窟。洞窟前といえば必ずボートでプカリ、プカリ お陰で船酔いで仕事にならず。

一年ぶりの北欧で

今回の訪問国はデンマーク・ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの4つでしたが、各国ガイドの説明の中で印象深かったことを少し.

(上記写真はストックホルムの市役所=左はノーベル賞の晩餐が行われるホール、右は晩餐後のダンスホール)

北欧といえば全てのガイド氏が必ず口にする言葉・高福祉、高負担の中味とは? 基本的に国に高く払った分、死ぬまで国が面倒見ますというコンセプトです。下記表の如く消費税だけとってみても4倍を越える。国によっては食べ物などの消費税が低く抑えられていますが、それでも驚くほどの高額です。
下記表の国民負担率という項目を見てもらうと分かるのですが、最低所得の人でも半分はお国にもっていかれる。これだけ取られたら日本では皆ブーたれるだろうが、北欧では皆が素直に払う。この疑問をガイド氏に質問すると皆一様に言った。代議士先生は威張らず、公務員の汚職がない。それゆえ国を信頼していますと。

スウェーデン 標準消費税= 25% 食料品消費税 =12% 国民負担率(2000年)=76,5%
デンマーク 消費税=一律25% 国民負担率=73.9%
フィンランド 標準消費税= 22% 食料品消費税=17% 国民負担率=66.6%
ノルウェー 標準消費税 =24% 食料品消費税 12% 国民負担率=56.2%
日本 標準消費税 =5% 国民負担率=37.2%
(国民負担率とは: 1年間に納めた税金と、それ以外に納めた税金と、それ以外に支払った年金や医療保険などの保険料とを合計した額が、収入のうちどれくらいの割合になったのかを示した数値。)

デンマークのG氏の言葉、「ある代議士先生がパリで夜のナイトクラブのショーに公費で行って大問題になったとのこと。」つまり皆がきびしくチェックできる羨ましいシステムがあるということ。

(写真はノルウェーオスロのバイキング船、ビーゲラン公園、ムンクの叫び)

高い税金を取られるゆえ税金を使う人を選ぶ選挙となると皆慎重になるとの事。投票率はどこも80%は越えるとのこと。選挙日も一日ではなく数日にまたがる場合が多い。また国民総背番号制ゆえ本人確認が簡単なこともあるが選挙する場所も広場や地下鉄の駅前であったりと日本では考えられないシステムがある。これなら選挙結果もどこかの宗教グループの高得票率に支配されないで済むでしょう。足腰立たない年寄りまで投票場まで車でお連れする宗教幹部の熱心さは私には少し不気味と感じるのだが、貴方はいかがか?

5週間の夏休みや、大学までの学費や医療費が無料であったり、老人福祉も日本同様に在宅介護が主流だが最後は国が丸抱えなど、全て北欧では当たり前。 (写真はコペンの人魚姫の像と観光客で賑わうニューハウン港)

あまり硬い話だとつまらないので面白い話をあと2つ。
フィンランドのG氏の話。スピード違反の取調べの現場を見て。「この国ではスピード違反の罰金はその人の所得の多少で多くなったり、少なくなる」との事。

(写真はコペンとストックホルムの王宮の衛兵交代)

スウェーデンのG氏の話「自分の12歳の娘の先生が離婚問題で悩んでいた時、クラスの離婚した親を持つ生徒の皆が、けなげにも先生を励ましたとの事。そこで先生がどの位の生徒が離婚経験者の親がいるか調べたら、22人のクラスで18人の親が最低一回は離婚しているとのこと。」それでそのG氏の娘が帰って来て親に聞いたことが面白い。
その娘は心配になって親に聞いたそうな。『うちはいつ離婚するの』幸いそのG氏はまだ同じ人らしいが。G氏いわく『離婚率は最低でも50%超えるんじゃないの』
北欧では保育園や幼稚園の施設が完備しているので男女みな仕事を持ち、女性も安心して働けるゆえ出生率は日本より高い。それゆえ女性も強く、離婚も高いのだそうな。 離婚はどちらか一方がNOを言えばすぐ別れられるそうな。北欧の女性と結婚しなくて正解。日本人でよかった・てところですか。

今回どの国でも男親が出勤前に赤ちゃんを保育園に連れて行く姿を何回かみたが、G氏が言うには
そんな男ほどカッコいいとの事。 日本人とかっこよいの基準が違うようですな。
日本の男達もベビーカーを引く男がカッコいいなどといわれたら古い私はどうしたらいいのよ。どうする。どうするよ!!

(右の初心はヘルシンキの朝市)

スイスの危機管理

東日本の大災害で危機管理が随分と話題になり、ついスイスのそれを思い起こした。福島の議会でも原発と津波の危険性を注意喚起していたし、有識者の多くも同じ事を言っていた。それを議会は否決し、有識者の警告も東電は無視した。それゆえ原発事故は人災といってよい。スリーマイルやチェルノブイリの怖さを身近に感じていたにも関わらず、想定外といい続けた東電の経営者や議会人の責任はどうなるのか?。
それに引き換えスイスのそれはこれでもかと言うほどに想定外を準備している。
その1軍事:米ソ対立のさなか永世中立を謳い、国全体をはりネズミのように武装していたことは有識者なら知っているだろう。「中立だから誰も責めないで」などというかっての非武装中立を唱えた社会党のような甘い考えには立たず、20歳~50歳までの男子に兵役を義務付けていたのは有名な話。ツアー客にそのことを話すと皆感心したものだ。
冷戦も終わった今、兵役はゆるくなったとはいえ、今でも19歳になると20歳までに15週間の兵役を終え、40歳までの22年間に3週間の兵役を10回やらねばならぬ。700万チョットの人口。九州より小さい国なのに陸海空の3軍を持ち(海軍は湖があるので)、軍需費5000億を超える予算。職業軍人は3400人あまり、30万ほどの現役兵と40万ほどの予備役兵がいる。国の豊かさを保つのにこれだけの準備をしている。だからヒットラーもスイスを迂回してイタリアに入ったのだ。
面白い経験がある。ユングフラウの登山列車の中で機関銃を持ち、完全武装をした山の若者を何人も見たときには驚いた。その若者に詳しくは聞けなかったが兵役への行き帰りの様子が楽しそうで、かつ生き生きとしていたのがとても印象的であった。自衛隊アレルギーの政治家先生や戦争アレルギーの有識者に見せたかった。

その2核シェルター:冷戦中までは各家庭にシェルターを義務付けられていた。写真右の核シェルターはNetに出ていたスイスに住む日本人家庭の写真を拝借しているが、政府が半分補助費を出すとのこと。3ヶ月分の食料備蓄から始まって空気清浄機、水・薬その他の保管が義務付けられていた。スイスにガイド氏が付くツアーが少なくなったのでこのシェルターと備蓄の事は何処まで義務付けられているか聴けないのが残念だが、次に行ったら一般人に聞いてみようと思う。

面白い笑い話でこのエッセイを閉めよう。
独裁者達の会合での会話
「スイスのような豊かで綺麗な国を見ると国民が羨ましがって困るよ。いっそ滅ぼしちゃおうか。金さんよ!カダフィさんよ!どうよ。」
両者が期せずして言う「滅ぼしたりしたら俺が預けてあるスイスの隠し預金は大丈夫かえ。」スイスの特異性を示す話でした
PS:この2回ほど硬いエッセイで申し訳ない。初めて見る人は前の旅のエッセイを見て下さい。旅行に行きたくなるのはそちら。スイスへ一緒に旅したら道を壊す爆弾装置や山の中にある空軍基地や、観光地のすぐ傍にある大きな核シェルターを紹介しますよ。

「プラハの春」事件

前から気になっていた「プラハの春」事件でソビエトに抗議して焼身自殺した若者2人の墓参りに行ってきた。
「プラハの春」などといっても今の若者達には全く分からない人が多いので少し解説する。

1968年まだ米ソ冷戦の真っ只中、共産主義陣営のチェコスロバキアがソ連に反旗を翻し、人間の顔をした社会主義、つまり自由を求めて国民が立ち上がったが、ソビエト軍の戦車によってつぶされた。首都のプラハに入った戦車とソビエト軍の姿が世界中のマスコミに配信され、日本では時の進歩的文化人といわれた左翼系の学者やマスコミ人達を驚かせた衝撃的な事件でした。
翌年プラハの学生二人がソ連軍に抗議して戦車の前でガソリンをかけ焼身自殺を図った。自由に手が届く寸前だったので絶望して自殺という形でソ連軍に抗議した。
戦車の大砲の前で裸の胸を突き出して「打つなら私の胸を打て」と抗議した若者達の姿に全世界が胸を痛めた。 (左の写真は2人の墓、右は墓とバーツラフ広場)

時代を振り返ってみると、1945年の戦後から自由主義陣営と共産主義陣営の東西の冷戦が始まり、最初にハンガリーが1956年ソ連に反旗を翻し「ハンガリー動乱」、68年この「プラハの春」事件、80年ワレサ達に率いられた「ポーランドの民主化運動」そして89年のベルリンの壁の崩壊から東欧、中欧が自由化し、2年後92年に本家のソ連も崩壊して半世紀にわたる東西の冷戦は終わった。

このチェコの「プラハの春」事件は私にとり大学生になりたての多感な時代であり、初めて政治問題に目覚めたという事で特別な思い入れがあった。、それゆえ焼身自殺したこの若者2人の墓は前から気になっていたのだ。
この墓はプラハの中心部から歩いて10分~15分でいけるバーツラフ広場という場所なので時間があれば訪れて欲しい所。墓の横に2人の写真があり感動するのは間違いない。
このバーツラフ広場は89年のベルリンの壁崩壊後すぐにチェコ市民が再び自由を求めて革命を起こした場所でもある(ビロード革命)。この広場の建物の上から何十万という民衆に向かって初代の大統領になるハベルや、戦車に踏みにじられた時メキシコオリンピックでソ連の選手を負かした体操の選手「チャスラフスカ」などと言う自由の旗手たちが手を振り民衆を鼓舞した広場である。

私といえば共産主義国家を旅するまで自由のありがたみなど気にもせず、それが如何に素晴らしいものかを知ろうともしなかった。私はそれを旅行中に 肌で知ることができたが、机上での論理しか学ばない左翼学者やマスコミの有識者とやらがソビエトの中味を見たらどうであったろうか。マルクスやレーニンも「人間とは・欲望や嫉妬を持つ厄介な生き物」だともっと深く人間を見つめたら「資本論」も違った形になったであろう。
フランス革命から生まれた自由・平等・博愛は独裁者が出る度に踏みにじられて来たが、欧州は共産主義という独裁者を肌で体験しているゆえ、国民も政治家も独裁者には特別神経を尖らせているような気がする。平等という甘い言葉に酔っている若者達が少しでもこのエッセイで目が覚めてくれることを祈ってこれを閉じよう

硬く重いエッセイにも関わらず、ここまで読んでくれた貴方に感謝して一句。
「君の碑を 見あげるたびに 諭される 自由とは これほどまでに 高貴なり」
今日の落ちは少し硬すぎてごめん

コルドバのメスキータ

長く添乗員をやっていると何となく好きな教会が出てくるものだ。今日はその中の1つコルドバ゙のメスキータを紹介したい。キリスト教には縁もゆかりもない私だが、ヨーロッパに行けば教会は外せない観光スポット、いつの間にか教会通になってしまう。中でも大きさと豪華さで圧倒されるバチカンのStピエトロ寺院が感動の筆頭なら、このコルドバ゙のメスキータは私が2番目に好きな教会である。

何故なのかとつらつら考えてみると、ひとえにその幻想的なところであろうか。教会内に入ると外と中の光のギャップで一瞬立ち止まり、そして次は柱の並びが目に飛び込んでくる。これがとても幻想的で何とも魅惑的。この柱の群像がこの教会の真髄である。グループで行ったなら観光終了後10分ほど中でのフリータイムを貰うことを薦める。そして物思いに沈みながら歩いて欲しい。観光客が少なければ静けさとあいまってその感動がより増すのだが。

もともと奈良時代初期にジブラルタル海峡を渡り、瞬く間にイベリア半島を征服したアラブのイスラム教徒が築いたモスクゆえ、その作りは砂漠の民があこがれるオアシスを理想化したものである。オアシスの椰子林がそのモスクの中に林立している姿である。

北に押し込められたキリスト教徒が13世紀にこの地を取り返すまで、このコルドバ゙は彼らアラブ人の首都として10世紀には絶頂期を向かえガイドブックによっては50万ともそれ以上の人口を誇ったとも言い、ヨーロッパ中の学生が留学に来たほどの隆盛を誇った地である。(中世パリやロンドンでも10万程度の時代にですよ

通常キリスト教徒が再征服した地は、後の王達の命でモスクは壊され新たにキリスト教の教会として作り直される事が多いのだが、この教会はなぜか2割くらいしか壊さずに昔のモスクをそのまま残している。そのギャップもまた私をして好きにさせている理由であろうか。壊すには惜しいほど美しかったのではと想像したいのだが。

その時の王はスペインから全てアラブ人を追い出したイサベラ女王の孫のカルロス5世の時代で織田信長の時代に重なる。この時代ヨーロッパも激動の時代でドイツ側とスペイン側のハプスブルグ両王家は結んでフランスやイタリア、イギリスに戦争を仕掛けていた時代であった。
注:イサベラ女王とご主人のフェルデナンド王はコロンブスのスポンサーとして有名

イサベラは最後に滅ぼしたイスラム・アラブ人のグラナダ王国に自分とご主人の墓を作るよう命じたほどだから、アラブの町であろうとグラナダの美しさを素直に認める審美眼と度量をもっていたと想像する。それが彼女の孫の時代になると美しいものも壊すほどになってしまった。時代なせる業であろうか。異教的な物は許せないという狂信的な時代にスペインが突入した時代でもあった。その狂信的な理由も影響してかカルロスの子供のフィリップ2世の時代からスペインの没落は始まる。

さてその教会の中味であるが、まず柱の多さにびっくり今でも800本以上ある。それらは古代のローマ時代の遺跡を壊して持って来たものが多いが、そのリサイクルの仕方は見事で全然違和感がない。アラブ人がメッカの方を向かって祈る窪み(ミヒラブという)の美しい装飾はオリジナルそのもので見事という言葉しかない。数あるモスクの見学経験からしてこれほど美しく飾ったミヒラブは私も見たことがない。またカルロス5世が作り直したキリスト教の祭壇部分も椰子の林から解き放されたギャップがあって面白い。是非一度は見て欲しい教会である。 (写真左はキリスト教の祭壇右の2枚の金箔モザイクはイスラム・ミヒラブの中心部)

カルロス5世という王様はグラナダのアルハンブラ宮も半分くらい壊して、訳も分からないパンテオン風の神殿を作ったりと、審美眼には欠けた王のようであるが、イサベラの英邁さも3代目には薄れていくのは時代の流れであろうか。

最後はカルロスの面白い逸話から
メスキータの改築を見て言った王の言葉が残っている
「あの美しかったモスクを誰がこんなにしたのだ」
工事主任は言った「王様のご命令のままに」
王「何ぃ~ わしが。わしが壊せとな。」
“三太夫を呼べ、三太夫を”と言ったかどうかは知らぬが、全くどこかの馬鹿殿様みたい。
「三太夫」のギャグ分かるかな~ わかんねだろーな

ポンペイの魅力

南イタリアの旅に欠かせない観光スポットといえばカプリの青の洞窟に並んで有名な「ポンペイの遺跡」の魅力を述べたい。 下手なガイド氏や添乗員によってはただの石の遺跡の1つになってしまうのが残念なのでここの魅力をたっぷりと。
まず時代背景を述べねばならない。イタリアにいた原住民と共存しながらギリシャ人がこの町を本格的に貿易港として築いたのはBC6世紀頃というから日本ではまだ縄文式時代の竪穴式住居などといった穴を掘って暮らしていた時代のこと。その後再び原住民のサムニウム人の支配などを経ながらローマ帝国の時代へと進む。現在目の前に見られる遺跡はBC3世紀から2世紀にかけてのローマ時代の物が中心だが、日本では大陸から稲が伝わる前、つまり弥生式時代前の縄文時代であったことに注目して欲しい。 つまり魅力の1つは同時代の日本の集落との比較である。

九州や登呂遺跡などの遺跡からの想像複元図を見ると(石の文化と木の文化ではかなりのハンディはあるが)その規模や文化の進み具合の差に愕然とするはず。ガイド氏が同時代の日本の文化との比較を最初に丁寧に説明してくれればそれだけでも驚きの目で見てくれるはず。 それともう1つ忘れてはならないこの遺跡の魅力は通常の発掘遺跡が自然風化した遺跡ゆえ基礎石しか残っていないのに比べ2千年前の建物や生活空間がそっくり我々の目の前に迫ってくる凄さであろうか。

BC79年の夏8月突然近くのベスビオ山が噴火してその熱い火山灰などでそっくり埋まってしまったのだ。つまり日常生活がそのまま埋まってしまったので食べかけのパンや食料品の数々・支払い途中のテーブル上の銅貨(ナポリの考古学博物館内)や、逃げながら死んで行った人間や動物の生々しい死姿が発掘されている。それゆえ考古学に興味のない人にもかなり面白く感じられる遺跡である。 注:人間や動物の死骸の肉の部分は空洞化するが、その空洞へ上から石膏を流し込み、乾いた後に掘り出すと、その時の死んだままの姿で掘り出せる。(遺跡のそこかしこに見られる) (鼻を押さえながら死んだ姿は痛ましい)

ガイド氏に寄れば人口は1万2千人~2万人少々の(この町の規模と、劇場や闘技場の収容人数から割り出している)典型的なローマ帝国時代の地方都市の1つであるとの事。火山灰で埋まる前は町のすぐ傍まで海岸線が来ており、海に流れ出す川の河口に作られた典型的なローマ時代の貿易港として繁栄を謳歌していた様子は、この噴火を生々しく描写している小プリニウスの記述からよく分かる。

(注小プリニウス:当時叔父の大プリニウスはこの地方の総督であり、住民の救出に向かい自ら火山ガスで死ぬ。彼はその様子を友への手紙で残している。詳細は塩野七生著の「ローマ人の物語」を参照 以下写真を追いながらその魅力に迫ろう。 )

ポンペイのフォロ: 中心にジュピター(ギリシャ名=ゼウス)の神殿を配し、回りを2階立ての回廊で囲む青空広場。回りにはアポロンの神殿・裁判所・ローマ皇帝等の像広場・両替商・市場・運搬業者=フォロ横にある宅急便屋 等々。(上記左の写真はフォロの広場 ・右の写真は宅急便屋の看板) 左写真はフォロへ入る前の馬車止めと石畳のメインストリート。歩道と車道が分かれている事に皆感動。 右写真はメインストリートに面した2階建ての住居(一階は店,二階は住居) 無料の上水道の水汲み場:長年の手の力で磨り減っている手すり跡は生々しい。

*裕福の家には水道パイプ(鉛の鉛管)から特別料金を払って自家へ上水道を引いていた。こんな時代に鉛管が引いてある技術に皆驚く。 (注:ローマ人は川の水を飲むと伝染病になることを知っていたらしく、上水道は山の遠くから水道橋を作り綺麗な水を町に引き、飲み水として町の広場〃で流しっ放しにしていた。それゆえ通りには絶えず水が流れておりその水により汚れ物を下水まで運び川やその先の海へ流していた。)

売春宿:「狼の遠吠え」(伊語=ルパナーレ)と呼ぶポンペイ一の人気スポット。 2階建の中へ入ると男女の色っぽいその場面を表す浮世絵風の壁画が現存している。前に浴場、隣には薬屋がある。風呂で綺麗になった後はユンケル飲んで、いざ娼婦館へか!! 今の薬局は十字架のマークが掛かっているが、古代は隣の薬屋の壁にある蛇のマークが一般的。*娼婦館は25軒発掘されている。キリスト教が入る前の世界では性欲は今よりもっと自然の摂理として捉えられていたので倫理観は今よりずっとおおらか。

男湯の浴場跡:サウナ・お湯風呂・水風呂(女性にはなかった)の3点セットが見られる。 *運動場(ローマ人は戦いに備え体を鍛える場所を風呂場の近くに用意した)・着替えルーム・温風が流れていた二重壁の様子。サウナルームで見られる「しずく避け装置」等を見られる。 (写真左は二重壁の中、右写真はしずく避けのスジの姿) 牧神の家:高校の世界史に載っているアレキサンダー大王とダリウス王との「イッソスの戦い」の床モザイクが出たところ。(今コピーが見られる) パン屋跡:現在のピザ屋と全く同じ作りのパン焼釜と小麦を引く石うす。

秘儀荘: 自家の中にワインを造る道具なども備わったポンペイ城壁外の別荘。当時上流階級の婦人達の間で流行した密教=バッカス教・入信儀式を描いたとされている「ポンペイの赤」として有名な赤色がくっきり残るフレスコ画 注:バッカス神(ギリシャ名=ディオニッソス神)酒の神として有名 (注:当時の赤色の絵の具は小さな巻貝の一種から取り出して作ったとの事)

劇場と闘技場跡:闘技場はローマのコロセッオの三分の一もない。ここまで足を伸ばすツアーはないが、この2つはローマ時代の地方都市には必ずあった娯楽施設 以上ざっとですがポンペイに行ったら見ておきたいスポットを列記しておきました。 古代ローマの遺跡の殆どは大都市の下に埋もれているので見る事が出来ないが、ここはそれが見られます。やはりイタリアに行ったら必ず見て欲しいスポットです。

「ポンペイのタイムカプセル歩けば夢ロマン  娼婦・泥棒までが 闊歩する」 

トレドの魅力と素晴らしさ

スペインの首都マドリッドの滞在日数が少なければ「マドリをスキップしてもトレドを見るべし」などとよくガイドブックに書いてある。下手なガイド氏や普通のガイドブックではトレドの魅力が伝わり難いので今日はその魅力を2つほど。 (左の写真は現在のトレド全景)

まずトレドに行くと三方をタホ川に囲まれたその独特の地形に目を見張る。川側に面した部分が崖になっているので陸側部分に厚く壁を作れば籠城に強いということで、古くはローマ時代から重要な軍事拠点として栄えてきた。

  色々な民族が王朝を立てたがこの地形にプラスしてイベリア半島の真ん中ゆえかドイツ系のゴート族の王朝や今のスペインの元を作ったイサベラ女王の時代からはここが長く首都として使われていたとの事。マドリよりもずっと歴史があるのでマドリよりトレドの方が見るべきものが多いということだ。本当に狭い道を歩くだけでも楽しい。歴史を一歩一歩踏みしめる感じは何ともロマンを感じる一瞬である。

「「注:イサベラ女王とは15世紀カスティリア王国の女王であり隣のアラゴンの王と結婚し結束した力で最後に残ったグラナダ王国のアラブ人を追い出し今のスペインの基礎を作った人としてスペインでは誰知らぬ者はいない。また彼女はコロンブスのスポンサーとしてスペインの黄金時代の基礎を作った女王でもある。」」

(右上の写真:トレドの大聖堂 右下=トレドにある世界の三大名画の1つ:オルガス伯爵の埋葬)


そのトレドの古さを物語る事例を2つ述べよう。1つはプラド美術館の中にあるエル・グレコの絵である(左の絵)。その絵はトレドの全景が描かれているのだが、今ツアーで行くとバスでトレドの全景を写真に収める所へ行くのだが、その写真が500年前のグレコの絵とほぼ同じというのに度肝を抜かれる。木の文化と石の文化の違いを感じる一瞬であろうか。

もう一つはガイドからのエピソード:アメリカ人の学生ツアーで来たあるユダヤ系アメリカ人女性のお話。

<<彼女が観光後ホテルで感極まってずっと泣いていたのを不思議に思った同部屋の女性が訪ねたところ、なんと彼女の家に伝わる先祖代々の地図と鍵が500年前のトレドの地図と鍵であり、それが今のトレドの番地と合っており、しかもその門の鍵と合致して扉が開いたとのこと。この出来すぎた作り話のような話が同部屋の彼女のスペイン人の知り合いから知り合いに伝わりそれが新聞にまで載ったとの事。>>

つまり泣いた彼女のご先祖様はイサベラ女王がスペインを統一し、非キリスト教徒のアラブ人とユダヤ人を追い出した時代に逃げ出したユダヤ人家族であり、今は回りまわってアメリカに在住しているという訳である。トレドの古さを物語る話であるがユダヤ人の執念にも驚く何とも面白い話ではないだろうか。

国連のパレスチナ決議のように「昔のユダヤ人の土地を返せ」などといえば世界中でこのトレドのような話がゴロゴロ出てくるだろうが、ヨーロッパ人はきっと次のように言ってユダヤ人には入らせないであろう

「俺はユダヤ人が来る前のゴート人の子孫だ、だからこの土地は俺達のもの。お前らには渡さないぜ」てな調子ではねつけると、どっこい今度はイタリア人が出て来て
「俺達はゴート人より前にここを支配したローマ帝国の子孫だぜ。お前らこそ退きな」てな具合。

おっと忘れていた。ゴート人の後にはイスラムのアラブ人が支配していたな! 延々と続きそうなので今日はここまで。
この古さがヨーロッパの歴史・文化の魅力を感じさせる所であり面白い所であろうか。

スイスで思うこと

スイスといえば何がすぐ浮かぶだろう。自然を利用した観光業、時計などの精密機械工業、牧畜のミルクを利用したチョコ、大都市のそこらじゅうに見られる銀行や保険会社に代表される金融業(GNPではこれが最大らしいが)などがすぐに浮かぶ人はかなりのスイス通。
その中でも今日は観光業の中の一つの例としてユングフラウの登山列車を見てみよう。この列車と施設を見ると、その自然を克服する姿とそれを美しく保つスイス人の努力がこの国の豊かさを作っていると実感できよう。
この列車とは明治11年から16年の歳月を架けアイガー北壁とメンヒの山の壁面内に手掘りのトンネルを堀りヨーロッパ最標高のユングフラウヨッホ駅(3548m)まで引っ張り上げた鉄道のこと。ダイナマイトはあったと思いますが、何せ山の中ゆえ下手にダイナマイトを使うと山が崩れるのか、手掘りでレールを引いたとの事。そのアイガーのトンネル内には2つの窓を開け、そこからグリンデルワルド村や欧州最大氷河などを見降せる装置まで作っている。

その努力たるや本当に頭が下がる。その努力のせいかこの山を目指して世界中から観光客が、夏はその絶景を見るため、冬はスキー客がと押すな押すなの盛況です。
頂上駅からの絶景に驚いた後にもう一度驚かされることがある。それはこの山の頂上の全てのトイレが水洗トイレということだ。この駅の施設にスフィンクスという名の展望台(標高3573m)があるが、富士山で言えば9合目位の所に水洗トイレを作り、汚水を山に残さず下に落とし、ほぼ真水に近い状態にしてから川に流すとのこと。このトイレに皆2度驚く。それゆえスイス中の湖の美しいこと。スイス人の自然へのアプローチの姿勢に我々日本人は素直に頭をたれる。

スイスという国、豊かさとか国民の幸福度とかの統計ではいつもトップグループにいるが実は19世紀初の中頃まではヨーロッパでは貧しい国の筆頭の方に属していたという事実には驚きでしょう。
19世紀中頃というとまだ産業革命がヨーロッパに広まる前です。つまりそれまでの各国の力を比較するには農業が中心。商工業力とか貿易などは産業革命後のことである。日本の江戸時代もそうだが、農業の大きさで国の力を測る頃は山ばかりのスイスなどは一番貧しかった。
ではそれまでのスイスの次男坊以下はどうして生き延びていたかといえば、欧州間の戦争で必要な傭兵として自分の体を売って生き延びてきたのだ。アルプスの少女ハイジの祖父も父も傭兵であり父は傭兵として外国で死んでいるのをご存知か?
(*スイスが傭兵制度を国として禁止したのは1897年のこと。イタリアのバチカン市国だけは例外で、そのスイス人の律儀さと信頼のせいか、名誉職となったバチカン国の警護をスイス人に与えている。写真は16世紀ミケランジェロ・デザインの制服を着
るスイス人傭兵)

フランス革命でマリーアントワネット達を最後まで庇いながら死んで行ったその姿が信用という物を生み、皆からお金を預けられるようになり、それが金融業に発展し、貧しさの象徴だった山川湖がスイスを代表する観光業になり。傭兵で生き残った次男坊たちが持ち帰った時計などが精密機械工業に発展し、これらがスイスの屋台骨になっている。全てこの国が必要に迫られて生まれた産業ですが、かっての貧しさに二度と戻らない為にする努力、ユングフラウの登山列車はその一例だったが、このような努力は日本人が見習っても良いところではないだろうか。九州より小さく、800万ほどの小国が豊かさを保つにはそれなりの努力が必要なのだ。
この国の凄さはまだまだ一杯あるが、後はスイスに来た時に。

そこで最後に一句
「美しく 豊かな国の後ろには、汗と血と、涙の跡が見え隠れ」
今日の一句は少々格調高いかな

ウイーン王宮の宝物館

この頃日本でもハプスブルグという名前をよく聞く。上野の美術館での特別展、宝塚の舞台での演目「エリザベート」等でその名をよく聞くせいか、ウイーンの観光も昔と違いお客様の反応が早い。今日はウイーンのツアーで午後フリーになるお客様へのInfoの1つとして、この頃人気の宝物館の案内。

ウイーンで半日フリーがあると、ウイーンの森へのバスツアー、絵画好きは美術館めぐり、音楽好きはオペラ座見学、モーツアルトハウスの観光などが一般的に人気だが、ウイーン2回目の人や、歴史好きの人などには本宮殿内の(ホフブルグ)のシシー博物館、ウイーン少年合唱団、スペイン乗馬学校、宝物館などをお勧めしたい。
注1:シシーとはオーストリア帝国のフランツ・ヨーゼフ皇帝の后妃エリザベートの事。2人は明治天皇とほぼ同時代。シシーは皇帝の母との折り合いが悪かったせいか、ご主人が堅物だったせいかは分からぬが、早くからウイーンの宮廷を飛び出し、領地のハンガリーやチョコ・北イタリア・バルカン諸国などを旅する事が多くなる。最後はスイスのジュネーブでアナーキストに暗殺された。絶世の美女として今でも人気の后妃」
「注2:シシーの長男が自殺し、甥が後を継ぐがサラエボで殺され、それが引き金で第一次大戦が始まり、その敗戦でハプスブルグ家は崩壊する

さて今日は女性に人気の宝物館の魅力をたっぷりと
。St・ペテルブルグのエルミタージュやモスクワの宝物館、ロンドン塔にあるイギリス王家の財宝をイメージしてもらっては困る。つまりそこまで金銀財宝で埋め尽くされているわけではない。宝石もあるが、それ以外の宝物も多いのです。ロシアのロマノフ王家のように全員が殺され財宝がそっくり残ったわけでもないし、またイギリスのように今でも使われているわけでもないので派手さに欠ける。

ハプスブルグ家はロシアのロマノフ王朝と違い第一次対戦で王家が崩壊しても一族は個人的な財宝を3台の馬車に詰め込んでスイスへ亡命した。残った財宝は主に公的に利用された物ばかりで彼らは手を付けられなかった。つまり中世ハプスブルグ家が世襲にした神聖ローマ帝国・皇帝だが(ヨーロッパの王の中の王)、その戴冠式の公式行事に使う財宝やそれに付随して使われた宗教儀式などの財宝が中心で、いかにハプスブルグ家といえども公的な物として持ち出せなかったようだ。
「注:16c位から神聖ローマ帝国皇帝もハプスブルグ家の世襲になって行くが、形式的ではあってもフランクフルトで王や大司教達の選挙で選ばれたのです。

そうは行っても中世から近代に掛けての名家中の名家ハプスブルグ家です。ウイーンを首都に神聖ローマ帝国の皇帝の位を世襲にした王家ゆえ宝物もハンパではない。
入場チケットを買えば日本語のイヤホーンガイドが無料で付いてくるが、紹介しているのは10点ほどしかなく、その説明も難しい。またガイドツアーもないので解説を少々。
●最初は神聖ローマ帝国の戴冠式に使った冠。10世紀後半最初の神聖ローマ帝国の皇帝オットー大帝(ザクセン出身)以降の皇帝がが使ったといわれた王冠・剣・王珠・十字架の4点セットと戴冠式に使うマント (右写真)

「注:神聖ローマ帝国とはフランスの東部、ドイツ、オランダ(16世紀には独立が始まる)、ベルギー、スイス(13世紀には独立が始まる)、北イタリア、中欧、東欧、バルカン半島の北半分とスペインを結婚で飲み込んだ時には新大陸までも領土を広げたドイツ系を中心にした世界帝国
●12世紀のルドルフ2世の冠。ハプスブルグ家内で使われた冠。長く続いた神聖ローマ帝国が200年前ナポレオンに征服され、神聖ローマ帝国は崩壊。以後はオーストリア・ハンガリー帝国と名前を変え、それ以降の皇帝が戴冠式に使った帝冠 ・王杓・王珠の3点セット
「注:オーストリア・ハンガリー帝国の領土:ほぼ神聖ローマ帝国と同じ領土の大帝国だが、ドイツへの支配力はなく、スイス、オランダは早くに独立し、バルカンの半分と東欧の一部はトルコに取られ、スペイン(新大陸を含む)とウイーンは結婚を繰り返すが、近親結婚の弊害で17c後半にはスペインのハプスブルグ家は途絶える

● カール大帝の想像図:デューラー作(16世紀) 
カール大帝とはローマ帝国崩壊後8世紀の後半、キリスト教を取り入れ西欧を最初にまとめたフランク王国の皇帝
「注:中世の皇帝とはローマ法王から冠を貰う事が出来た王様の事。カール大帝が最初。彼の孫の代、フランク王国は分裂。ゲルマン語圏ではザクセンから出たオットー大帝が10世紀に神聖ローマ帝国の皇帝を名乗る。その後皇帝はフランクフルトで王や大司教達の選挙で選ばれ、その地で戴冠式を行った
● エメラルドの器:こぶし大の大きさに圧倒。コロンビア産
● アクアマリーン:18世紀・ロシア産 492カラット

● メノウの大鉢:コンスタンチヌス大帝(4世紀)時代の物。底に天然の傷「XRISTO」の文字が浮かび上がっている神秘な鉢ゆえ、キリストの聖杯と信じられていた。

● 黄金の羊毛騎士団の首飾:ハプスブルグ家では最高勲章 皇帝が首長

● 黄金の羊毛騎士団のミサ用祭服


● ブルゴーニューの宮廷杯:15世紀ハプスブルグ家は結婚でブルゴーニュー、フランドル(オランダベルギー)を手に入れる。

● ナポレオンとその奥方マリー・ルイーズ(ナポレオンに征服された皇帝の娘)
「注:愛妻ジョセフィーヌを離婚してまで跡継ぎが欲しかったナポレオンは征服した神聖ローマ帝国の皇帝の娘マリー・ルイーズと結婚する。彼女との間には一人男の子が出来る=ナポレオン2世=結核で20代で死ぬ
●ナポレオン2世のゆりかご

ここから先は眉唾物の聖遺物
●キリスト張り付時、彼の手に打ち込まれた釘の一本が入っている聖体顕示台=復活祭などの祭りに「みこし」のように担がれるもの

●キリストの張り付時、頭にかぶせられた茨冠のトゲの一本が入っている聖体顕示台=右横

● キリストが張り付けになった時、彼を刺した槍(800年カール大帝が時の法王より貰って神聖ローマ帝国に伝わる=この槍のお陰かカール大帝は異教徒との戦いに連戦連勝。戴冠式の冠より権威があるものとして代々皇帝に伝わる)
他にもあるが、多すぎるのでこの辺で。入る前に日本語の解説書を買って入ると分かりやすいのでお勧めです。

夫婦で行くと女房殿が騒ぎ出しますよ。出る頃には女房殿の目が吊り上っていること請合い。
くれぐれもご用心あれ。  「金銀ダイヤで目がく~らくら」てか!

南ドイツにあるルードイッヒ王の3つの城

ドイツのロマンチック街道がらみのツアーは各社ともかなりの売れ筋ではないだろうか。そこで今日は夏場にお勧め・南ドイツの旅で良く行く3つの城「白鳥の城」 「リンダーホッフの城」 「ヘレンキムゼーの城」の話を少々

作った人:バイエルン国の王様ルードイッヒ2世。(この時代ドイツはまだ1つではない)
●建築時代:明治2年~18年(1869年~1886年//24歳~41歳=王の死で建築は終わる)
●王の人となり:2m近い長身・美男子。繊細・純粋・ホモ。父の若死にで18歳という若さで帝王学を学ばず王になり激動の時代に放り出された。
●時代背景:日本も明治維新という激動の時代。西欧もアメリカは南北戦争、欧州ではベルリンのプロシアがビスマルク宰相のお陰で強国になり当時の大国オーストリアやフランスに戦争を仕掛け、ドイツを1つにしようとしていた時代。
ルードイッヒ2世も最初はそれなりに政治に目を向けたようだがビスマルク戦争に引きずられてオーストリアに味方し負けてプロシアに賠償金を取られ、フランス戦ではビスマルクに引きずられ、勝ち組にはなったが国家財政の事で閣僚達から口やかましく言われ、政治が嫌になる。

それゆえ彼は自分の趣味の世界に逃避してしまう。特にワーグナーの追っかけとなり、彼のオペラに出てくる城を彼と一緒に6つまで作ろうとする(実際は3つしか作れず、それも2つは未完成)
それゆえ叔父さん一派に捕らえられて最後はミュンヘン郊外の城に幽閉され、そこで自殺している。
閣僚達にしてみれば戦争で悪化した財政の上に、城作りに湯水のごときお金を使われては国家財政が破綻というわけで、幽閉は仕方がなかった処置かも知れぬが。 実際は殺されたのではともいわれている
しかしこの城のお陰か今では南ドイツのこの一帯はドイツ最大の観光スポットとなり毎日観光客で溢れている。まさに歴史の皮肉である 。それでは3つの城の詳細。

◎「白鳥の城」:ロマンチック街道の終点にそびえる街道一の名城。この城は売れ筋のロマンチック街道のツアーで必ず行くので詳細は省く。1つだけ言うならば冬場はお勧めしない。それは城の全景を撮る場所(マリアン橋)が閉鎖されているからである。ツアーで行くと必ずミニバスで城の後ろまで行き、マリアン橋の上から綺麗な城の全景が撮れる。

かくゆう私も30年以上も昔「週間読売」という雑誌のポカリスウェットのCMに抜擢され、この橋の上から、写真をとったのです。なんと見開き1ページです。(写真の一枚は橋の上から=まだ髪の毛が有りましたよ)
◎「リンダーホッフの城」:3つの城の中で唯一完成している城。解説書ではベルサイユのトリアノンに似せてとあるが全く似ていない。こちらの城の方がずっと綺麗で洒落ている。
●1時間に一回出る大噴水は見事:これは地形の落差を利用し、電気などは使っていない。
●室内の家具・調度品の見事さ。全てロココ風で華麗ではあるが優しく見やすい。
●王の寝室のベッドからみる窓の外の景色:そこには城の後ろ側にある人工の滝がある(右は滝の写真) 。その素晴らしさはなんともロマンチック。こればかりは行かないと分からない。

●庭に作った人工のビーナスの洞穴:中はワグナーのオペラ「タンホイザー」そのまま。 小さな船が1艘浮かんでおり、照明具合によってはカプリの「青の洞窟」になる。
まだまだ一杯あるが、あとは実際行ってお確かめ有れ。最低1日は必要です。 (左写真)
◎「ヘレンキムゼーの城」:ミュンヘンからザルツブルグへの途中にある「キムゼー湖」の島の中に有るのでこれも最低半日は必要。余裕のあるツアーでないと行けない。
● 庭と宮殿内:ベルサイユ宮殿そっくり。中はフランス・ルイ王朝の王様達の肖像画で一杯
● 鏡の間:ベルサイユそのままのコピーだが時代が明治ゆえ、こちらの方が豪華に見えるかも (右写真)
●彼の寝室:とても凝っている。昼間寝て、夜起きていた王ゆえ、夜の明かりの照明が特に凝っている=青の球体で出来た照明球。ちょっと妖しい雰囲気 (左写真)

● 浴室の壁:ギリシャ神話のニンフ達。ここで王はお気に入りの小姓達と戯れたようだ。(右写真)
城の魅力は筆ではとても語り尽くせないので何とか行って見て欲しいのだが、無理な人にはお勧めの映画がある。ルキノ・ビスコンティ監督の「ルードイッヒ神々のたそがれ」という映画。この映画の中に3つの城がよく出て来た。
私的にはエリザベート役をやったロミーシュナイダーが今一。やはりこの役は若き日のイングリッド・バーグマンあたりにやってもらいたかった。

監督のビスコンティも主役のヘルムートも本物のルードイッヒ王もみんなホモ。
まさに「ホモがホモを使ってホモの映画を作った」ゆえ、見た後はホモホモするかな!?。

北欧の朝市と魚市場

久しぶりの北欧4カ国の旅でした。豪華客船やフィヨルドなどの自然が北欧ハイライトですが、山国の田舎に育った私にはこれらのハイライトは今ひとつ感動が薄い。今回も好きな市場を紹介します。 今回の市場はヘルシンキの朝市とノルウェーのベルゲン魚市場をご紹介。
まずはヘルシンキの朝市。
昔は魚の屋台が多くありそれなりに活気とバラエティさがあったのだが、魚の屋台が減って、土産屋が増えたのに少しびっくり。それゆえ野菜・果物市場と土産屋・屋台レストランという感じ。最も魚は市場の横に隣接している屋内魚市場があるので用は足りるが、屋台の魚屋さん独特の威勢の良い掛け声がないのが少し寂しい。

この市場で前から日本人の感覚と大きく違うなと思っていたこと1つ。
写真に有るような「さやエンドウ(写真参照)」の大きい豆を生で食べるということ。つまり茹でたり煮たりでなく、中の豆を取り出しそれを生で食べると言うこと。これが今でも納得できない。今回も試食してみたが、どうしても青臭くダメでした。お客様も皆びっくりしていた所を見ると私の感覚が正常か?いつかヘルシンキへ行ったらこの市場で試食をしてください。

この市場はストックホルムなどへ行くシリヤラインやバイキングラインの豪華客船が出る港であり、市場の前には大統領官邸や、ロシア正教のウスペンスキー寺院があったり、大聖堂のある元老院広場から3分以内の観光スッポトゆえフィンランドでは必ず足を運んで下さい。

次はベルゲンの魚市場。
夕方に着いたので店が殆ど終わっていたが、夕食が外だったので皆を連れてこの魚市場を通り抜けたが、まだ何件か店が開いており、魚市場にある独特な雰囲気と活気とを味わえた。ただ生きた魚を飼っておく生簀(写真参照)は全て鍵が掛かっており、魚をさばくダイナミックさは味わえなかったが、ベルゲン名物「茹で甘エビ」やタラコを潰した「たらこチューブ(写真参照)」などを試食をさせてくれる店があり、お客様もそれなりに楽しんでいた。

ここの「茹で甘エビ」はどうしてこんなに美味しいいのだろうか?。その日に揚がった甘エビをここの海水で茹でるとのこと。前から思っていた私の説だが、その海水から来る塩加減と新鮮さがこの味を出すのではないかと密かに思っている。北欧の旅には必ずフィヨルドの旅が入っており、フィヨルドの街ベルゲンには必ず泊まるので、この魚市場も必ず足を運んで試食をして欲しい。

築地の市場も外人観光客が押し寄せる名所になっているとの事。皆~な市場は好きなのだ。

      今の築地で仲買人が言う言葉
「おいおい外人さんよ、マグロに勝手に触るんじゃねーよ」

     初期の頃の日本人海外旅行者がパリなどの魚市場で言った言葉
「おいおいマグロの脂身捨てるんじゃーねーよ。そりゃトロと言って一番高級だぜ」。
最も日本レストランがトロを高く買い占めてからこの言葉はあっというまになくなったが。

ハドリアヌスの長城

今日はイギリスの北の果て、スコットランドの地に残るローマ帝国の遺跡、ハドリアヌス皇帝の作った長城のお話。万里の長城の小型版といえばお分かりであろうか。紀元後122年に工事が開始され、完成には10年かかったとの事。北海のニューカッスルからアイルッシュ海のカーライルまでの118kmにも及ぶ長城で、ローマの軍人と原住民との共同作業で作った壁である。(原住民はローマの軍隊に25年補助兵として勤務すれば、ローマ市民権をもらえた)

中国の万里の長城は明の時代に修復されたので、しっかり残っているが、ハドリアヌスの長城の壁は1500年程のあいだ放って置かれたので、壁近くの人たちが建築資材として次々に持って行ってしまった。それゆえ今見られるのは部分〃であり、それも殆どが残骸である。
オリジナルの壁の高さは4~5m、厚さ約3m、約1.5kmの間隔で監視所も設置されていたとの事。また6km間隔で要塞も建築され、要塞には500人から1000人のローマ兵が配備され、いざ敵の侵入に備えていたと推定されている。
ローマ帝国崩壊後もこの壁はイングランドとスコットランドの国境として機能し(今の国境はこの壁より少し北にある)、現在まで心理的に影響を与えた壁である。

今回のバスドライバーは新人だったらしく、いつもとは違う長城の遺跡へ連れて行かれた。とんでもない山の上であまり観光客が行かない場所である。いつもと違うので私も戸惑ってしまったが、お客様は途中のお花畑が綺麗だったためか皆楽しそうではあった。

ハドリアヌス皇帝とはローマ帝国が一番領土を広げたトライアヌス皇帝の次の皇帝であり、実際にローマの領土を自分の足で回った皇帝として有名である。北はこのスコットランド、西はスペイン~モロッコ、南はアルジェリアやエジプトの果て、南東は中近東から南ロシア、東はライン川とドナウ川に沿って、広大な領土を本当に自らの足で回り、その場所〃で帝国と蛮族との国境の警備をチェックし、具体的に壁などを作らせた皇帝として歴史に名を残す。

それまで攻勢一本やりのローマが守りに入ったというと消極的な感じを受けるが、この領土の地図を見ればこの皇帝の先見性が伺われる。足場を固めねば中から崩れるのが帝国である。歴史を知っている人なら彼の死後ローマは300年近くその繁栄を享受したことはご存知のはず。やはり彼の選択は正しかったのではないだろうか。

よほどの歴史好きの人しか行かない場所ではあるが、今回はイタリア人夫妻1組と我々のバスだけであった。ローマ帝国の子孫であるイタリア人がいたとは何か歴史の因果を感じる。

果てしなく続く壁を見ると、またオリジナルの壁を想像すると何かしら心の底から感動すること請け合い。やはりスコットランドまで足を伸ばしたら、是非見ておきたい遺跡の1つである。
現代緊迫した国境といえば中国・北朝鮮、南北朝鮮、などがすぐに連想される。そこでこんな落ちで閉めよう。
「おーい壁の向こうの将軍さんよ、経済がたがたじゃねーの。いい加減に辞めて引っこみな。今なら命だけは助かるぜー」
「馬鹿やろー!俺を誰だと思っているんだー。俺の名前は金だぜ。金~!ドルでも元でもいくらでも刷すれるのよー! それでも がたがた言えば原爆打ち込むぞ」

PS:今日の落ちが分からない人の為に:北朝鮮が偽札刷っていることを知らないと全く分からない

PS:ハドリアヌス皇帝は長い視察旅行が終わった後、ローマ近郊のチボリの地に自分の回った帝国の中から印象深い建物のコピーを作らせ晩年はそこを別荘代わりとして使ったとの事。その遺跡の一部が残っていますが、ローマからバスで1時間くらいでいけます。写真は古代の別荘の復元図

PS:地図他の写真は塩野七生の「ローマ人の物語より」

ローマらしい遺跡 パンテオン

ローマの市内観光の中では行けない観光スポットの一つにパンテオンがある。約2千年前に初代ローマ皇帝オクタビアヌスの片腕のアグリッパにより建てられ、一度火事に会ったのを同じローマ皇帝のハドリアヌスによって再建された神殿である。
観光がゆったりしていた昔は、またバスがもっとローマの中心部に入れた頃は観光でも足を踏み入れたのですが、スペイン階段あたりから20分ほど歩かざるを得ないので、旅行会社もツアーには入れない。自由時間が有れば私としては是非にでもと勧めている。行ってほしい遺跡の1つである。

ローマ遺跡は帝国が滅ぶ前後に侵入者の蛮族ゲルマン人やその後のキリスト教徒が教会を作るために壊されているので古代ローマを偲ぶ建物はこの神殿とコロッセオの2つ位しか残っていないのだが、コロッセオが三分の一しか残っていないのに比べこの神殿はほぼ完全に近い形で残っているので古代ローマを偲ぶには一番適した遺跡といってよいであろう。

ローマ観光では必ず入るバチカンのお寺にミケランジェロが設計したといわれる丸屋根があるが、その丸屋根部分をそのままそっくり地上に降ろした感じの建物と言えば想像できるでしょうか。お椀を逆さに伏せた感じの建物といった方が分かりやすいか。

パンテオンとはローマの言葉で「神々の館」という意味で、ローマで拝まれていた神々を中で一同に祭っていた神殿との事。進入してきたゲルマンの野蛮な民も中の貴重品を取り外すだけで、またキリスト教徒も壊せば自分が押しつぶされてしまうので壊すに壊せずキリスト教のお寺として使って来たのが歴史的背景である。あるいは壊すには勿体無いと感じたのであろうか、それほど凄い建物である。

地図を片手にローマのごちゃごちゃした下町を歩くと突然クーポラ型の神殿が現れる。A・AGRIPPAと刻まれた正面部分と大きな一本柱が何本も表玄関を飾っているのですぐ分かるのだが、この神殿の迫力はやはり中に入ってからであろう。

中での第一印象は2千年前によくこんな物を建てられたなというのが素朴な印象である。そして落ち着くと「ドーム型の屋根は落ちて来ないのかしらん」と心配になる。それは屋根の頂上部分がすっぽり丸く抜けて空が見えるからであるが、これは明り取りの役割をしており、雨の少ないローマでは降った雨も下に貯めて使うための装置でもある。しばらくたたずむと、その開いた丸屋根から入ってくる明かりにホッとし、次に建物の厳粛さと構造に圧倒され皆無言になるはず。何とも神を感じるローマらしい建物である。こんな所で古代ローマ人と対話するのも旅の楽しさのひとつであろう。
「機械もないのにこんな建物 どないして お前らローマ人は作ったん。えー答えてみいー」 てな具合に。

建物の中は有名人のお墓にもなっており、ローマ帝国崩壊後バラバラだったイタリアを今のイタリアの形に統一したビットリア・エマニュエル2世のお墓とルネサンスの3大巨匠のラファエロのお墓があるのでついでに見ておいて欲しい。 

「パンテオン作ったお人はアグリッパ。わたしゃ お口を アンぐリッパ!」  我ながら詰まんない落ちでした。

トルコにはアジアとヨーロッパが2つあるよ


マルコポーロが 800年前に東西を行き来した頃は何年もかかったのだが、今ではここトルコも直行便のお陰で12時間程と身近な国になった。そのアジアの東の端が韓国、日本であれば、西の端のアジアがシルクロードの終点トルコである。そのトルコという国、アジアとヨーロッパが接する2つの顔を持つ国という事を知る人は意外と少ない。

その東西2つが接する所がトルコ最大の都会イスタンブールのボスポラス海峡である。海峡の 一番狭い所はなんと600メートルとの事。その距離のお陰で古代からアレキサンダー大王やジュリアス・シーザーなどの征服者達が渡った海峡だが戦略的に重要地点ゆえ、西欧諸国が重要視している場所である。つまりロシアの艦隊が黒海からボスポラス海峡を通って隙あらば地中海へ出ようとしている場所でもある。
EU諸国としてはトルコをEUに入れるそぶりで引っ張りながら、NATO軍事同盟に加盟させロシアを押さえているという複雑な地形である。

今回は高いツアーのお陰で時間的に余裕があったので、ガイドに頼んで海峡を渡ってもらいアジアサイドに行って来た。そこは歌に出てくる「ウシクダラ」という何もないところだが、そこの海岸からヨーロッパサイドと海峡にかかる橋の写真を撮って帰って来ただけだったが、観光スポットが全てヨーロッパサイドに固まっているイスタンブールゆえアジアサイドに立ったという事は皆それなりに感動したようだった。  
特に橋を往復するとき、橋の最後にかかる黄色の看板「WELCOM TO AJIA=アジアにようこそ」「WELCOM TO EUROPA=ヨーロッパにようこそ」を目にした時には感動がピークに達したようだった。

そのアジアサイドの海岸で面白い工事を見た。大成建設の看板が立てかけてあるのですぐ分かるのだが、映画や小説で有名なオリエント急行の終点駅を海峡トンネルを掘ってアジアと繋げる工事である。つまりヨーロッパサイドで終わっている有名なオリエント・エックスプレスを船を使わず、乗り換えなしでアジアまで繋げる工事との事。

鉄道といえば遅ればせながらアメリカに新幹線を売り込んでいるようだが、こればかりは、いかに親日的なトルコでも日本の新幹線を買えない歴史的背景がある。それはこの国が昔から付き合いのある技術国ドイツという国が大きく立ちはだかっているからである。 そんなハンディがあるにも関わらずボスポラスに掛けた第2の橋は日本の建設会社が1973年に受注し、とても好評。その受注合戦は今でも語り草になっているが、時の欧米の首脳達が強烈に抗議したとのこと。サッチャー首相が急先鋒だったことは私でも記憶している。
だからこそ今回のトンネル工事の件、大成さん良くがんばったと誉めてあげたい。トルコ国民に日本の技術力の凄さを見せ、また喜ばれることを期待したい。

ともかく顔は西洋、心は東洋という魅力的な国トルコ。これからもっと人気の出る国のひとつであろう。ここトルコへの日本人観光客の半分以上が「トルコが良かった」との口コミで来ていることがそれを示している。ちなみにここへ来る時は塩野七生著「コンスタンチノープル陥落」を見てくると旅が身近になって面白いこと請け合い。是非読んで欲しい。

熟年には「ウシクダラ、ウシクダラはるばる来れば」なんて江利チエミの歌もあったが。今では「それって何」と言われるのが落ちなので、この歌の事は紹介しないが、ウシはウシでもこの国の「牛」や「ヨーグルト・生チーズ」を沢山食べに来て欲しい。トルコ民族も元をたどれば中国の北西にいた遊牧民ゆえ東洋の香りを残した肉や乳製品がやたらと上手い。 つまり味付けが日本人好みなのだ。
特に肉の「シシケバブ」、ヨーグルト・ドリンクの「アイラン」という飲み物は私の一押しです。    
「ケバブ食べてアイラン飲もう」ってか  「淫乱」ではありません、「アイラン」です。

PS:高いツアーでの特典紹介
①今回イスタンブールのインターコンチネンタルホテルへ3泊。内容が14階以上でボスポラス海峡が見える部屋との条件でしたが、14階以上に泊まる宿泊客には毎日16階のラウンジでアルコールを含む飲み物と軽いつまみの食べ放題、飲み放題が付いている。高いツアーを選んだ場合はこんな特典が付いている事が多いので行く前に確認すると良いでしょう。今回頂上レストランが夕食として付いていたので、夕食前に皆でここへ集まり一杯飲んでからレストランへ行った。でも夕食会場での飲み物代は高かったよ。
②通常ホテルのサウナやプールは無料だが、このホテルのトルコ風呂とその前にあるスチームサウナも勿論無料。是非夫婦でトライしてもらいたい。疲れも取れるし、トルコ風呂のイメージが変るかも。
勿論水着をお忘れなく。

久しぶりのエジプト

エジプトは6,7年ぶりになるのだろうか? ほこりっぽい町の喧騒、ノンビリした田舎とゴミの散らかり具合、何も変っておらず懐かしかった。カイロでの車の渋滞が増えたのとチップをねだる人の減り具合でこの国がゆっくりではあるが豊かさへ向かっているのが体感できる。

G氏によると大統領は死ぬまで権力を離さない、つまり選挙もそんなに公平ではなさそうだし、政治家のワイロは当たり前の世界がアラブの常識とのこと。進歩もゆっくりなのは仕方がないか。最も政治家の腐敗は日本も似たりよったりだが。

今回のG氏はいかにもエジプトらしくノンビリおおらか。日本人の典型の私との対比が目立って仕方がない。それにしても北はアレキサンドリアから南はスーダン国境まであと50キロのアブシンベルまで1500キロを8日間で観光する強行スケジュールというのに皆元気に付いてくる。恐るべし日本人の熟年パワー。

日本人の勤勉さとG氏のノンビリさのギャップが楽しかった。昔はこのギャップに次の言葉を皆が憶えて帰った。それは「インシャラー=神の召すままに」と「ボクラ=明日」という2つの言葉である。

G氏が遅れて来た時よく言ったものだった「インシャラー=遅れたのは私のせいではない。神がそうさせたのだ」だと。バスが壊れても、飛行機が飛ばなくても、部屋がなくても、全て「インシャラー」の一言で終わり。そしてどうにもならないと「ボクラ=全ては明日」の一言。ところが今回は全てがスケジュール通り。ルクソールの観光などは摂氏47度の中の砂漠を歩くのだが、この言葉を使う暇もなかった。この2つの言葉はすでに死語になったようだ。

旅を管理する側としては時間通りに行って欲しいのだが、私的にはエジプトはいつまでもインシャラーとボクラの世界でいて欲しい様な気もするのだが。
「エジプトは いつでもボクラと インシャラー」
ついでにこんな歌知っています?
「ボクラはみんな生ーきている。だかーらみんなでインシャラー」 詰まんない落ちだった。

パリMouffetard通りの市場にて

パリMouffetard通りの市場にて
パリで1日フリーになったので、お客様を追い出してから久しぶりにMouffetard通りの市場に行ってみた。昔から自分には男のくせに市場や朝市などへ行くと妙に浮き浮きするという変なくせがある。どうやらこれは死ぬまで治らぬかと思いながら地下鉄7号線Censier Daubentonに降り立った。

パリでは曜日を決めてあちこちと朝市が立つのだが、ホテルの近くにその朝市がなかったので何十年ぶりにここに来て見たのだが、11時頃ゆえかMouffetard通りも人がまばらだったのが少し気になった。昔はもう少し活気があったような気がしたのだが、やはり・リーマン以来の不景気がパリにも影響しているのだろうか?
昼食までは少し間があったので、地下鉄駅Censier Daubentonの傍のS-Medard教会の中で時間を潰す。ヨーロッパの特にカトリック系の教会は何気にふらっと入っても中の彫刻、絵画などを見るのが楽しい。いつの頃よりか私のささやかな楽しみになった。12時頃になったので再び通りを歩いて見たがレストランが多い通りなのに平日ゆえか人もまばら、やはりここは夕方から夕食に掛けてこなければつまらないのか。

しかし何よりも驚いたことが1つあった。それは中国人らしき東洋人が経営する日本食レストランが3つも4つもあったことである。欧米では健康ブームもあってか「すし」や「鉄板焼」の日本食がずっとブームで大変な人気である。それゆえ「SUSHI]とか日本食という看板を掲げれば客が入るということで外人経営の日本食レストランがやけに目につくようになった。板さんが日本人ならまだ良いのだが、中国人などが板長ならば何日前のスシを食べさせるか分かった物ではないということで、パリの大使館などでは本当の日本食レストランには何か目印をなどという動きも有るやに聞くが。

2件まで客を装って声を掛けて見るとウェイターから料理人まで全て中国系だった。他の2件は表構えからして日本人経営ではないと分かったので中の様子とメニューだけを見てギブアップ。こんな店の共通点はスシと焼き鳥メニューがやけに多い。肉は何とかなるが、生のスシに至ってはお腹を壊してはいけないと思い早々に引き上げた。これならオペラ座近くの日本食・「国虎屋」の讃岐うどんの方がずっと満足感があるゆえ、早々とここを後にメトロの駅に向かった。

仏レストランも人が並ぶほど入っていれば意外とつられて入るのだが今日の様にあまりにも空いていると返って入り辛いものである。こんな下町のレストランの定食「Menu」を選べば結構パリらしい充実感に浸れるのだが、歳をとったせいか重いのと塩けの強いソースが段々苦手になってきたのも影響したのか、自然にうどん屋へ足が向いてしまった。

うどん屋の帰りにスーパ「MONOPRIX」でノルウェーの「塩ゆで甘エビ冷凍」の一袋と私のお気に入りの生チーズ「ROUY」を買ってホテルに帰った。仏が最後の場合は「ROUY」という生チーズがいつも日本へのお土産の定番である(帰った頃には臭いが少々きつくなっているのでビニールで何重にも巻くべし)。
ついでに定番の塩バターキャラメルを探してこれもゲット。夕食はホテルでのさびしい夕食であったがワインだけはスーパで10ユーロ以上するリッチな白で乾杯(経験からスーパで10ユーロ以上ならば味としては裏切られないのでお試しあれ)

「生チーズ 海老とワインで 二つぼし」 今宵の夕食は味だけは星付レストラン並でした

クリスマスといえば「聖しこの夜」

クリスマスの時期になると必ず思い出す場所がある。クリスマスには欠かせない聖歌「聖しこの夜」が最初に歌われたオーストリアのチロル地方にある「オーベンドルフ」村の小さな教会、「聖ニコラ教会」である(左写真)。本当にノンビリした寒村の教会で、見た目も中味も想像以上に小さいのに皆驚く。

資料を見るとこの曲は一晩で作った急ごしらえの曲との事。この教会の神父さん(ヨゼフ・モール)が作詞し、学校の先生であり教会のオルガン奏者でもあった(フランツ・グルーバ)が作曲とある。
この曲が生まれた経緯を知ると面白い。聖歌にはそれを伴奏するパイプオルガンが付き物ですが、そのオルガンのパイプをネズミにかじられ穴が開いてしまったとの事。お陰で音が出ずクリスマスに歌う聖歌隊がオルガンの伴奏なしになってしまった。困った2人は教会内にあったギターだけで伴奏できる曲を慌てて作ったのが誕生の由来。
 ギターではパイプオルガンの厳かさや複雑な音は出せないがギターの音だけでも伴奏が欲しいと思った2人のひょうたんから駒であった。裏を返すとギターだからこそ歌いやすいこの曲が出来たのかも知れぬ。
旅行客にしてみれば教会内にずっとこの曲が流れていて欲しいのだが入っても流れず、ただの小さな教会を見るだけなので少し拍子抜けするのが実体験でした。

教会に入ると壁の両側に作者2人の肖像画(写真ではなかった?)が掛けてある。この2人もこの曲がこれほど世界中で歌われるとは思っていなかったであろう。まさに作者冥利に尽きるとはこのこと。
ビートルズの「イエスタディ」などの名曲なども遊びながら口ずさんでいたのがあそこまで名曲になったというのは有名な逸話なので皆もご存知であろう。意外と名作や名曲などはこんな誕生の仕方が多いのかも知れぬ。

旅行客の減るヨーロッパのこの時期、旅行会社も知恵を振り絞り、何とか集客しようと必死なのだが、安くなった飛行機、ホテル代などを売りにクリスマス・ツアーの目玉にと、一味ひねったこの教会を入れるツアーも出てくるようになった。各都市のクリスマスマーケットを巡りながらこんな田舎へ行くのも「オツ」なものではないか。
 オーストリアはアルプスに国土の多くが寄り添っているのでこの時期寒いのだが行ってみたい教会の1つである。寒くてもヨーロッパという方にはお勧め。

人生不真面目に生きている私などこの曲を聴くたびに襟を正すきっかけになる曲なのですが、そこで一句
「サイレント・聞いてもすぐに・飲み騒ぐ」 私も典型的な日本人でした。

 自由主義革命と旧共産圏の国境今昔

89年ベルリンの壁の崩壊後の旧共産圏諸国の自由化への移行は劇的だった。ソビエトの力が衰えるやいなやこぞって自由主義圏にナダレを打ったように鞍替えした東欧諸国に日本のマスコミや左翼系の学者は目を回していた。
自由のない世界がどれほど息の詰まる世界かということを肌で感じさせてくれた革命であった。秘密警察による恐怖とその恐怖の元になっていた密告制度が、どれほど人間性を壊していたかを私も旧共産圏を旅して経験していたので自由主義化がどれほど嬉しいか想像できる。
 ソ連のKGBや東ドイツのシュタージュなどの秘密警察が人々を恐怖させたかは経験した人でないと分からないであろう。ナチスのような過去の一党独裁の政権をまじかに見ていた西欧諸国は、独裁政権と秘密警察(ゲシュタポ)は切り離せないと2次大戦で学んだようだ。

それゆえNATO側としては少しでも東欧諸国をソビエトから引き離すチャンスとしてあらゆる努力をした。その一番大きな政治指導として自由化後には東欧諸国をEUに入れるという冒険を行った。ソビエトの台所事情がガタガタしていた弱みに付け込んでワルシャワ条約機構からの引き離しに成功した。

具体的に西欧諸国が行った事は自ら金を出して貧しい東欧諸国への経済援助を行う。
まずEUに入れると決めたとたんにEUのブルッセル本部は西欧と東欧を結ぶ道を整備するための金を出す。もっともこれらの金は西欧諸国の税金ではあるが。
 EUに入ると決まるとすぐに物資が自由に往来出来るようにと道路のインフラ整備から始めた。東欧へ向かう道路整備などは一番最初に添乗員が気付いた部分であった。それと同時に人件費の安い東欧へ西欧のメーカや資本が次々と入っていき、徐々に東欧の経済を西欧に近づけつつある。

本題の国境の話であるが、添乗員にとっては国境の行き来が一番分かり易く肌で感じる部分である。旧共産圏に行くと一番厄介だったのが国の出入りと入った後の貧しさであったが、革命前はその出入国に時間がかかって皆うんざりであったのに、それが日々劇的に変っていくのが実感されて歴史を感じさせてくれた部分であった。
 EU加入後も当初は旧共産圏側の出入りにパスポート検査があったが、それもあっという間に無くなり今では素通り状態である。気を付けていないと何処が国境か分からないくらい簡素になってしまった。
 EUという一つの国になり国境の壁が次々と取り払われるのはこんなにも便利なものかと感じるのは旅行客だけであろうか。こんな時にこそEUの結束を実感できる。国境ばかりでなく、通貨も経済状態の向上に伴い順次ユーロに変っていき、豊かさを実感できるように成った。

EUの概念を最初に唱えた日本人のハーフであるリヒャルト・クーゼンホーフ・カレルギー氏も草葉の陰で微笑んでいることであろう。自由の騎士、最高の文化人ともてはやされた彼もナチスヒットラーの弾圧でアメリカまで逃げたが、途中カサブランカまで逃げた時に、ひと悶着あったことを1942年にハリウッドが映画にしたのがかの名作「カサブランカ」です。そんな事を知っていてこの映画を見ると感慨深いものがある。
 きっと主演女優のイングリット・バーグマンの美しさにびっくりすること請け合いですが。貸しビデオ屋にあったら見て損はない映画です。

そこで一句  「EUを作った人はカレルギー、あたしゃは左翼のアレルギー」
なんかあちこちがかゆくなりました?

歴史に学ぶペルシャ戦

先日定額給付金12000円何がしを自民党政権から貰ったが、この時ふと2500年ほど前にアテネが活躍したペルシャ戦争を思いだした。
次の故事である。 2回目のペルシャ戦争を前にしてアテネ郊外で銀山が発見され、アテネ国は沸き立った。直接民主主義のアテネゆえ色々な意見が飛びかったのであるが、大勢は次の2つだった。1つは銀を皆で平等に分配すること。2つ目は来たるべきペルシャに備えてこの銀を戦費に当てるというもの。

ペルシャはマラトンの復讐戦(一回目のペルシャ戦)と称して今度は陸と海から大軍をそろえて向かってくるとの情報を得ていた。それでも市民は分配することに傾きかかっていたが、その時異議を唱えた将軍がいた。その男の名は「テミストクレス」  
彼は言う 「皆で分けてもほんの僅かな臨時収入にしかならない。この銀で来たるべきペルシャの艦隊に備えてアテネも海軍を増強せねば。この銀を利用して艦隊を増やそうではないか」と。議論のすえアテネはテミストクレスの艦隊を作る方にかけた。  古代の戦争は負ければ市民は奴隷になるのが常であり,兵力から判断するとペルシャの大軍にはギリシャ側は負けて当然の兵力といわれていた。立ち向かわずペルシャに尾っぽを振るのが当時の常識であったのだ。それゆえこのアテネ市民の大英断は後世の為政者への警鐘として良く引き合いに出される。

結果はアテネ海軍が敵のペルシャの何倍もの艦隊をサラミスの狭い海峡に誘い込んで、見事にペルシャ艦隊を壊滅して2回目のペルシャ戦争をギリシャの大勝利に導いた。それに比べるとわが日本民族はどうなっているのかと憂えてしまう。あれだけの金(給付金)を出すなら、一例としてエコ発電の風力や太陽光、地熱、海の波、等々、化石燃料に頼らないクリーンエネルギーを作り出すインフラに使えば孫子の代まで潤い、経済の活性化には即効性があると思うが。私の様な凡人でもこの位の景気策は出せるというに。

お小遣いをあげるから選挙を宜しくだとぉ~。その小遣いたるや孫の代にまで借金との事。何たる政治家どもの不見識か。アテネの歴史を学べといいたくなる。政治家どもには歴史を学ぶことを義務付けたくなった。 わが民族には「テミストクレス」のような政治家は出てこないのかと一人情けなく思っています?

余談だが、この2回目のペルシャ戦争を舞台にしてハリウッドが「300人」とかいうスパルタ陸軍全滅の映画を作りましたが、この時は日頃対立していたギリシャ・ポリスの8割方が固まりペルシャに立ち向かったとの事。(いつの時代にも日和見や敵に尾っぽを降るやからはいるものです)

この時アテネは後ろの陸側から、つまり北側から攻めてくる何十倍のペルシャ陸軍には最初から勝てずと見てアテネ市内は捨てた。女子供は島に非難させ、男衆は奴隷までも(自由を約束され)船に乗り、海戦に備え、見事サラミス海峡で戦い勝利したとの事。 当然アテネ市内はペルシャ軍に破壊されたが戦後復興された。余談だがこの時に作り直されたのが今に残るパルテノン神殿です。  

陸戦では300人の敗戦に危機感を抱いたスパルタが1つにまとまり、スパルタ陸軍を中心にギリシャ側は優位に立った。補給を船に頼っていたペルシャ側はその船をアテネに壊滅されてこの戦争は事実上終結した。 日露戦のバルチック艦隊の壊滅と同じ経路です。    戦後アテネの隆盛と求心力はライバルのスパルタのジェラシーを招き、2つの国を中心に全ギリシャが戦争となり、お互い自滅していき覇権をローマに取られるという歴史を我々は見る。

 余談だが、ふとこんな諺を思い出した。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」 
  「お小遣い あげても 選挙にぁ落ちちゃった」   これがホントの落ちかいな                                  

レオナルド・ダ・ビンチと最後の晩餐。

ミラノに行くと必ず見る観光スポットがある。サンタ・マリア・デル・グラッチェ「マリアさん・ありがとう」教会である。というよりはレオナルドダビンチの「最後の晩餐」の壁画がある教会と言った方が馴染みか。       
 500年程前ミラノの中心部にある教会の付属修道院の食堂壁にレオナルドによって画かれている。題のごとくキリストが死ぬ前日に12人の弟子と食べた最後の晩餐が絵のテーマである。

その絵は当時流行のフレスコ画法ではなくテンペラ画法で描かれている。その画法とは絵の具の顔料を卵で溶き、乾いた壁やキャンパスに描く方法である。今でも画家達が使う画法の1つだが、フレスコ画よりはるかに色鮮やかであり、今のような絵の具が無かった当時としては最高の画法であったろう。
 話それるが当時流行のフレスコ画とは、漆喰壁が乾く前にすばやく壁に色を置く手法である。乾くと何年経っても色落ちせず長持ちするがスピードが要求される。ちなみにフレスコとは英語のフレッシュにあたるイタリア語である。

レオ君は仕事が遅い上に、幾らお金を貰っていようが、他の事に興味が湧くと、それらに熱中してしまう性格の為か、晩餐の壁画はゆっくり描けるテンペラ画法で描いた。また話がそれるがレオナルドが頼まれた仕事を放っぽりだして熱中した仕事といえば大砲、機関銃、戦車、飛行機などの制作である。

さて壁画に戻る。食堂の壁に描かれたということで調理熱のせいなのか、画面上の卵の蛋白質の付く微生物のせいなのか、詳細は分からないが、描き終わるとすぐ傷み始めたとの事。その上2次大戦の米軍爆撃で天井に直撃弾を食らい3年も雨ざらしの状態にあったという悪条件が重なり、オリジナルの素晴らしさから離れてしまった。
 
NHKの修復模様をみると今回の洗浄作業で過去の画家達が上から何回も書き加えた様子がよく分かった。20年以上掛けて洗っている“のんびり”さにも驚いたが、新たに出てきたレオナルドのオリジナルの綺麗な絵にはもっと驚かされた。
30年前の洗浄時に見たときは暗かったせいか全体が黒っぽく見えたが今は全体的に色が薄く見える。
この絵で私が一番感激したことは、評論家達の「絵のウンチク」ではなく横に置いてあった一枚の写真であった。それは2次大戦の爆撃で壊されたこの教会に土嚢を積み上げ、残った壁画を必死に守るミラノ市民の写真であった。 詳しく言うと真中が吹き飛ばされた修道院・食堂部分の残った2枚の壁(この壁の1枚に晩餐の絵が有る)の絵を守ろうと市民達が土嚢を組んでこの壁画を守っていた写真だ。
 イタリア人の歴史好き、文化好き、芸術に対する心意気である。この辺にイタリア人のすごさと言うか素晴らしさを感じた。(現在ではこの写真はもう無い)

もしミラノに行く機会が有ったら、これは必見。但しこれを見るには日本からの予約か、これを見るツアーに入らないとみられない。もっともイタリアの事、キャンセル待ちという手もあるが、10分見るのに1時間~2時間も使う時間の余裕が必要。
 蛇足だがミラノは仕事には良い所でも観光では今一つの町かも知れぬ。観光の中にミラノが入っているなら別だが、日程に限りが有るならベニス、フィレンツェが入っているツアーを選ぶべき。それほどイタリアは奥が深い。 

ところでこの壁画は女房連れの時、ミラノのブランドファッション店から貴方の奥方の目をそらせるには格好の口実として使える。大方次のような会話になるのが落ちだが!。 
『お前が見たいと言ったから予定に入れたのに、買い物の為に抜けるのか。俺はなんとしてもこの絵を見るんだ。このまま行って見る。買い物に行くならお前一人で行きな。』
本当に行きそうだったら、もう一押し。『ミラノは結構日本人がドロボーの被害に遭うらしいよ、気を付けろよ。』
それでも奥方の方が語学は出来るは、度胸は有るは、なんて言う人は諦めて高い買い物に付き合うのですな。 
       「グッチで愚痴ってグッチャグチャ」 では次回    

風呂と香水とココシャネル

ローマ遺跡を前にいつも考えさせられ事がある。それは欧州ばかりでなくアフリカにまで残る風呂遺跡である。2千年前ローマ人が、あれだけの領土を征服した原動力の一つに、風呂をあげる学者が居るが、ローマ人が征服した地に残る大浴場の遺跡をパリ、ロンドン(バース)は言うに及ばずアフリカの僻地にまで見ると、なるほどと納得出来る。
 その風呂文化がヨーロッパでは廃れ、唯一東ローマ帝国の地トルコ方面に細々と引き継がれ、トルコ風呂という変な形で日本に入って来た事は皆も知っているかも。

欧州にて風呂の習慣が廃れた理由は、中世ペストなどの伝染病が定期的に流行ったからとのこと。風呂は皆が肌を間接的に接する所として一番ポピュラーな場所であったからであろう。病原菌が何であるかが分からなかった時代では仕方がなかったろうが、お陰でヨーロッパ人は中世において随分と不潔な生活を送っていたらしい。

フランスのベルサイユ宮殿でおなじみのルイ14世、彼も一生の間に2回しか風呂に入らなかったことは歴史が示している。しかし彼は風呂の代りに毎日体をアルコールで拭いたと言われている。そのアルコールの中にいつの頃からか香水を入れて出来たのがオード・トワレとのこと。
 また宮殿に常設トイレがなく、「おまる」で済ませていたことを考えると、その臭い消しに香水が発達したというのもうなずける。そう言えば平安貴族も香水の代りに「お香」を使っていたではないか。
貴族の恋には昔から良い香りが必要不可欠だったようである。

エジプト・メソポタミア以来、花が有る所には何処でも香水は作られていたようだが、やはりニース・カンヌ当たりの南仏がブランド的にも有名であろう。南仏の旅には必ず香水工場見学コースがあり、結構買ってしまう。

そこで有名なシャネルの5番だが。ココ・シャネルが北欧を旅した時、その地の白夜を見てイメージした香水だと言うのを何処かで読んだ事が有るが、真実はいかがなものか。どうも売らんが為めの作り話の様な気がするが。
 私も白夜は経験したが、回りが寝ているゆえ、ひたすら「静けさ」しか記憶にない。尤も愛する2人で行けばシャネルの5番の華やかな気分になれたかも知れぬが、私の場合はなんとも寂しい白夜の経験であった。きっと北欧は1人で行っては行けない所なのかも知れぬ。

サラリーマン諸君よ若い女性達が香水をデイト前に付けているのを見たら「体臭の少ない日本人には安いトワレのほうがお勧めだよ」などと言いながら上記シャネルのお話でもすると貴君の株も上がるかも。最もこの頃の若い男性もトワレを付ける人が増えたとか。おじさん達も負けずに柑橘系で若く迫ってみてはいかがか。

シャネル5番の香水を愛用していたマリリン・モンローが日本に来て記者会見で言った時の有名な逸話でこのエッセイを締めよう。
記者が聞いた 「モンローさん、寝る時はどんなネグリジェを?」 
モンローは言った。 『あらーん、私のネグリジェはシャネルの5番よ』
君の奥方は言った。 『あたいのはチャンネルの5番よ』  何か着て寝ろよーてかー!       

「至高の愛」 “アガペィ”

ギリシャツアーが多いせいか「アガペーの愛」をよく思う。先日知り合いの結婚式でたまたま牧師が「アガペの愛」の事をしゃべりそれに感動させられたせいもある。
 感動の中味とは結婚式ゆえ勿論「愛」についてである。

ギリシャ語には愛という言葉が二つ有るとの事(本当は3つ)。文系の人はご存知だろう「アガペ」と「エロス」である。一口で言うと「アガペ」とは与える愛、「エロス」とは与えられる愛。
 詳しく言うと「アガペ」とは人に愛を与える事によりその中に喜びを、満足を、あるいは元気をもらう行為を言うらしい。 
 人間の行為の中では究極の美徳との事。ギリシャ哲学ではこのギブの愛を「至高の愛」と定義づけたよう。
 もう一つの愛「エロス」であるが、これは貰ったり奪ったりする事により自分が満足する、或いは元気になる行為とのこと。別の言葉で言えばテイクの愛。ギブ&テイク。ギリシャらしく分かり易いではないか。そして同じ愛でも「アガペ」の愛を「エロス」の愛の上に置き彼らの生活基盤としていた様子。
 まさにアガぺこそ人間が生きる上において、最高の徳として崇めていたらしい。 

ここから先は私の自説と言うか独断ゆえ軽く聞き流してもらいたい。
古代ギリシャの多神教の世界では、その多神教ゆえに皆が信心深かったと思いがちだが、見方を変えれば、それだけ神も希薄になり人生を快楽的に過ごしがちになる傾向があった。
 そんな世界ではエロス中心、今なら拝金主義と置き換えてよいが、そんな生活になりやすく人間社会もなにかと摩擦が増える。それを防ぐ為の方便だったのかと推測するが、ギリシャの賢人達が討論(シンポジオン)の果てに生み出したのがこの「アガペ」と言う愛の形ではなかったろうか。
 まさに究極の哲学である。一神教にありがちな狂信を防ぎ、さりとて行き過ぎた人間中心主義をも防いだギリシャ人の英知であろう。そんなバランス感覚の良かったギリシャ人達ゆえ、あれだけの文明を残せたのだと思う。こんな説を解いた教授はいないかも知れぬが、ギリシャ・ローマ文化に傾倒する私の独断と偏見と言って置こう。

その牧師はこんな事も言った。キリストで言う「愛」という言葉を日本で始めて具体的に皆が口にしたのは戦国初期に宣教師が持ち込んで以来との事。勿論キリスト教の「愛」と言えば「アガペ」であるが、日本人はこのアガペに相当するスペイン語やポルトガル語の「愛」という言葉が上手く訳せず、これを当初「一番大切な物」と言って居たそうな。面白い逸話ではないか。

宣教師にとって当時の日本人はとても内気な国民に見えたらしい。愛するとか好きとかの感情表現をストレートに出すのが余り得意な民族ではなかったようだ。
 私など求婚の言葉も憶えがないほど内気なスタイルで我が天使をゲットした事を憶えているが、私などが宣教師しからすれば典型的な日本人に見えたのだろう。

「アガペ」の溢れる嫁の影響で「アガペ」を意識する様にはなったのだが。いざ行動に移るとすぐ「エロス」に行ってしまう。この年になり聖人君主や哲人には遠く及ばずの境地である。

定義からすると人知れずのボランテア行為が「アガペ」であろうか。時々そんなボランティアを行う人種を見ると、我が身を振りかえって恥ずかしくなるが、どうやら死ぬまで「エロス」の愛を追いかけて行きそうである。
 全部が聖人君主ばかりだと、これも肩が張って疲れるので私のような人間もいても良いのではと一人で慰めている。  
「アガペ愛、目指したつもりが、ああエロス」。本日の落ちはいま一つ。

パリのカフェにて

パリを旅するとちょっとした事で驚く事があるが、その中の一つにカフェの横並席が有る。勿論向かい合わせ席も有るが、有名なカフェほど横並びが多い。何時間座っていても追出されないので、のんびりと時を過ごすにはお勧めの場所である。道行く人を眺め、逆に眺められる場所といってよい。

色々な人を眺めるのは結構楽しい物である。オープンカフェでお洒落な女性と2人で、道行く人から眺められれば、舞台上の役者の擬似体験が出きるというもの。つまりお茶を飲む二人は道行く皆に眺められる役者であり、道行く人達を眺め返す観客でもある。
 一種の舞台の役者と観客の関係と言って良いだろうか。なんともヨーロッパ的であり、お洒落ではないだろうか。

軽く食べる時などは、椅子を少し動かすだけで二人の世界が作れるのもうれしい。なんといっても横並びは女性を口説く時にも都合がよい。まっすぐ女性の顔を見なくて済むので照れ屋には口説き易い。無意味に場を繕うためのタバコも要らない。本当に好きだと告げる時だけ目を見れば良いのであって、そんなに長く見つめ合わなくて済むので気が楽だ。
 向かい合せだと会話が途絶えるのに御互い気を使うが、横並びだと何故だか沈黙でも間が持てる。
道行く人を眺めながら、次の会話の作戦が練れる。

なぜか正面で女性の目を見ながら口説くと、私の場合大抵は疲れて失敗した。自身タバコを吸わないので間が取れず持て余すのかも知れぬ。色々繕おうとして、つまりへたな会話でカバーしようとして失敗したのだと思う。黙って見つめるだけで惚れられるタイプでもない男のつらいところであろうか。
 日本にも横並びの喫茶店がたくさん出て来て欲しいのだが。長く座られると回転が悪い故か、スペースの問題か、見たり見られたりが苦手な民族なのか、リサーチの資料でもあれば見たいものである。

パリのシャンゼリーゼでお茶をする機会があったら、凱旋門近くの「カフェ・フーケ」をお薦めする。「仏映画アカデミー賞」の選考会がこの上のレストランの中で行われるという格調高く値段も高いカフェである。
 そう女優バーグマン全盛時代の古い映画「凱旋門」の中に何回も出て来るあの店である。中に入ると壁に掛かる映画スター達の写真を見るだけでも価値があるが、席はやはり外の道路沿いに座り、町行く人を眺めながらのお茶を勧める。
 風月堂もこの店の名前フーケから取ったとガイド達が言う赤いテントで有名なカフェレストランである。

同じパリでも現地人をのんびり眺めるには、サンジェルマン・デ・プレの「カフェ・ドゥ・マーゴ」「カフェ・フロール」の方がお奨め。ただここは同性愛の人が多いので予備知識なくフラリと入らない方が無難かも。この辺のカフェーから実存主義や古くは啓蒙思想などが生まれたと言っても過言ではない所である。
ボルテールやデカルトのような大思想家達も書斎から出て、このカフェで頭を休めたり、道行く人を眺めながら色々と思索したのではなかったろうか。勿論お盛んな先生達ゆえ愛人との逢引に使った事は間違いないと思われるが。  
 現代の有名人ではサルトルやボーボワール、F・サガン、カミュ達の溜り場だった所と言えばお分かりだろうか。 ちょっとインテリ風な気分でお茶をするならここであろう。

日本人もこのようなカフェで道行く人を一日のんびり眺めながら余裕の時間を過ごせるようになれば高邁な定理や思想もたくさん生まれ、ノーベル賞をもらえる先生方も増えること間違いない。
 最後はパリゆえデカルト先生に敬意を払って決めて見たいが。私の様な凡人には次のような定理になってしまう。
『我(一日マドモアゼルを眺め)思う故に(Hな)我有り
今日の落ちは少々難解すぎたか。
この諺が分かるなら貴方のインテリ度はかなり上です。

キャンティワイン

中部イタリア・トスカナ地方を回る旅をした。トスカーナと言うと、食通はキャンティワイン、若い女性はフィレンツェのグッチ、フェラガモなどのファッション・ブランドの本店所在地。教養人であればルネッサンス発祥の地などが浮ぶ。

今日は花より団子、教養より食い気と行こう。特にワイン屋の倅として生まれた私としては忘れられないのがトスカーナのブランドワイン「キャンティ・クラシコ」である。
 普通のキャンティワインといえば幌をかぶった下膨れ姿のセクシーボトルが有名である。その赤ワインのボトルがすぐ浮ぶ人はかなりワイン通であろう。

このキャンティ・クラシコとの出会いは添乗員初期の頃フィレンツェのサバティーニ本店(六本木の支店はまだ在るか?)で出会ったのが最初であった。ブランド好きの日本人には人気の店だったが料理としては味が濃い上にヘビーで私にはいま一つの味と記憶する。しかしワインとだけはぴったり合った事を憶えている。ソムリエに薦められるままに選んだキャンティ・クラシコとの出会いであった。

キャンティクラシコにも色々なブランドが有る事を知ったのもこの時。トスカーナの限られた地域(畑)の指定銘柄という事を知ったのもこの時が始め。つまりクラシコの名は勝手に付けられないという事を知った。
 クラシコと名が付くと、日本の高級レストランでは1万円を越してしまうようだが。
日本で探す時は温度管理のよいところ、つまり夏の暑さに耐える場所に置いてある店をお薦めしたい。
私自身はキャンティから少し南に下がった畑で「ブルネリ・モンタルチーノ」と言うイタリア大統領が公式晩餐会に使うと噂の有るブランドワインをもっぱら土産として担いできたのが常でしたが。

良いワインは良い女性との出会いと似ていると言ったら、かなりキザだろうか。格調高い女性というのは高いワインと一緒で出会いの時、冷や汗を掻く事が多い。高いので美味いだろうと思って飲むと意外とそうでも無かったり、反対に安い地酒が予想外においしかったりする事もある。ワインの面白さもそこにあるのだが。
 カラフ入りの名も無い地酒ワインでも、なんとも味があって妙に忘れられなくなり何回もそのレストランに通ってしまう事もある。本当に女性とワインはよく似ている。

私など一番安い地酒が妙に忘れられなくなり、今の女房になってしまったのだが、管理が悪かったせいか(ろくな給料を与えなかった)、蓋を開けっぱなしにしてしまったのか(留守にしすぎた)、酢になりかけております。そろそろ他銘柄の新しいワインでも開けたい所ですが。

もしイタリアに行ったら、奥方のブランドショッピングに付き合うのも良いでしょうが、年代物【ビンテージ】のワインを1本探す事もお忘れなく。ついでにワイン用のつまみとして生ハムか生チーズでも買ってきて一緒に飲めば至福の境地。これぞイタリア旅行の楽しき思い出の一つになる事請け合いであろう。
勿論格調高いワインは飲む1時間くらい前にバカラ風のビンに開け、空気をたっぷりあて、香りを十分に出し、まろやかにして飲むなどの工夫が欲しい。
くれぐれもホストクラブの若者の様な一気飲みは辞めて欲しい。        
『我が女房 色艶だけは ビンテージ』 お後がよろしいようで

ハプスブルグ王家とウィーン

始めてウィーンに行く日本人はその都市の美しさにまず皆驚く。格調高い王宮と公園のバランス、おしゃれな茶店とコーヒ&ケーキの美味しさ、ドイツ語圏とは思えない品のある料理、人々の優雅な身のこなし、など音楽以外でも旅人の心をくすぐる町なのです。
 同じドイツ語圏でも遅れて歴史に登場して来たベルリンには真似ができない所でしょう。

歴史的な町並みを歩き、充実した美術館を見た後ワインでも傾けながら名曲を聞けば《これどウイーン》だとみな酔ってしまう。
 中世の貴族服を着た音楽家(写真参照)とウエイターにかしずかれる音楽レストランがあるが日本人はこんな雰囲気に弱く、皆で舞い上がる。観光客が喜びそうなワルツやコンサートは毎晩。オペラだ、バレーだ、オペレッタだのと手を変え品を変え観光客から外貨を稼いでいる。
 それだけの物を残したオーストリーハンガリー帝国のハプスブルク王家ってどんなん?とよく添乗員に質問されるので、その辺を今日は少し。
 
ここの王家は王の中のチャンピオンの称号である皇帝の位を持っていたせいか「栄光のハプスブルク王家」と呼ばれ、数ある欧州王家の中では最高の名家でした。
 こちらでよく耳にする有名人としてはカルロス5世(マドリッドやウイーンの両美術館で馴染み=あごの長いのがこの王家の特徴ゆえすぐ分かる)、18世紀のマリア・テレジア女帝というよりはベルバラで有名なマリー・アントワネットの母、明治天皇と同時代で最後の皇帝フランツ・ヨーゼフとその奥方でヨーロッパじゅうに美人で名を轟かせたエリザベート(シシー写真参照)あたりであろうか。

そもそもハプス(鷹)ブルグ王家と言うのは北スイスの小さな領土から出発し13世紀ひょんな事から王の中のチャンピオンである皇帝の位を手に入れてから大きくなり始める。主に結婚政策で大きくなったと言うが、ちゃんと戦争もやる時はやった。
 スイスの本拠地はウィリアム・テル達の百姓軍に押されたせいか、勢力範囲は北東へと延びて行き13世紀には既にウィーンに本拠地を置いている。
 西欧から見るとウィーンは東に寄りすぎている様に見えるが東欧、北イタリア、バルカン諸国等がハプスブルク王家の主なる領土だったと分かると納得できる。
 全盛期には神聖ローマ帝国という名前でドイツ、オーストリア、オランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガル、東欧、バルカン半島、など欧州のほとんど、また新大陸まで領地を持っていた。
 勿論どんどん独立されてしまうが第一次大戦までは東欧、バルカン半島の半分をがっちり押さえていた。映画サウンドオブミュージックのトラップ大佐は確か元オーストリーハンガリー帝国の海軍大佐だったはず。北イタリアの海に面する領土を王家が持っていた事がこれだけでも分かる。

16世紀に大ハプスブルグ王家はスペインとウイーンの2家に分かれて行くが、両王家は結婚で絆を深める。ウィーンに残るスペイン乗馬学校という名前がマドリッドとウイーンの繋がりを今に忍ばせる。
 しかし両王家は近親結婚が過ぎたのか、スペイン側ハプスブルグ王家は17世紀に途絶える。ウイーン側は何とか残ったが、近親結婚の弊害は隠しようもなく、新興プロシアにジワジワと領土を侵されて行く。貿易で栄えていたドル箱オランダ、ベルギーは独立へと歴史の歯車は徐々に没落に向い、オーストリア側も一次大戦でプロシアと共に崩壊する。

まあ頭の痛くなる歴史はその位にして、有名なモーツアルトやベートベンなどの音楽家達や、クリムト、エゴンシューレ等の画家が、あのフロイトが、建築家オットーワーグナーが、その他諸々の文化人がウィーンで活躍した理由が、これで少しは納得していただけたろうか。現代では「トラさん」の唯一海外ロケがここで行われた。
 ウィーンは中世パリやロンドンに勝るとも劣らぬ首都中の首都だった。それゆえ数ある有名人もウィーンに集まって来たのである。過去の栄光だけで食える国ってうらやましい。もしかしたらこれが今日一番言いたかった事かも知れぬ。

奥様を連れていつかウィーンを旅したら上記の話を思い出して欲しい。行く前に「第3の男」の映画を見てから行くとウィーンが身近に成ります事請け合い。オーソン・ウェルズとジョセフ・コットンの演技も渋いが映画の中に戦後の荒廃したウィーンがたくさん出て来て楽しい。映画としても傑作。 主題は『ワルだったけど、死んでもアノ人は私の男よ。それが女心というものよ』てかー?
 いつの世でも女心は難しいものですな。最後のシーンが音楽とあいまって感動的。自分(ジョセフ・コットン)に気があると思っていた女が自分の前をわき目も振らず去って行くシーンは印象的でした。

ジョセフ・コットンが振られるこのシーンを吉本風に笑いとばそう。
俳優は「サンマ」と「大竹しのぶ」あたりがお似合いか? でもこの落ち分かるかな?
『あんなワル死んでもうた。はよう忘れて わてとやりなおそ。なあーしのぶ~。なあてば~しのぶ~』

PS:宮殿の写真は夏の宮殿=シューンブルン宮殿

カサブランカと EU と クーゼンホフ・カレルギー

カサブランカに行って「みつこ」という女性を思い出した。昔NHKで吉永小百合さんが主演した明治の女性ドラマである。ドラマの内容とは「みつこ」さんを通してオーストリア・ハンガリー帝国貴族の崩壊して行く姿と、夫の早逝後の「みつこ」の波乱の一生を描いたものである。
 
時は明治、青山の骨董家の娘に生まれた「みつこ」は日本文化に傾倒していた当時のオーストリ・ハンガリー帝国の駐日大使カレルギー公爵と知り合い正式に結婚し、彼の領地チェコのボヘミアで2人は暮した。
 当時3等国であった日本女性が欧州の政府高官と知り合えば駐在時の慰め物として、それなりの手当と引き換えに帰国時に捨てられるのが常だった時代、正式の結婚どころか現地の社交界でも活躍したとの事。 彼女の素晴らしさが推測出来よう。仏ゲラン社の香水「ミツコ」のネーミングになったほど有名な女性といえば魅力も推測できようか。

彼女の次男がこのエッセイの主人公、誰あろうクーゼンホフ・カレルギー公爵その人である。驚くかもしれぬが彼が最初にEUの概念を提唱した人である。『小さな国は戦争のたびに侵略される。同じヨーロッパ人同士が戦争しないで仲良く出来ないものか。ならば欧州が一つの国になったら良いのでは。』という汎ヨーロッパ思想を提唱する。
 彼の説はかなりの賛同者を得たが、時代はナチス・ヒットラーのゲルマン至上主義の時代。彼のような自由思想はヒットラーにとっては都合の悪いものであり、結局弾圧され逃げまくる事になる。彼は年上の女優と結婚していたが、2人してモロッコのカサブランカまで逃げてきた。この話をハリウッドが映画にしたのがH・ボガード(ボギー)とE・バーグマンでお馴染の『カサブランカ』である。これから先は女性達とお茶する時の会話ツール。

映画の主題は男ボガードの優しさであろうか。ボギーはある日、自分の経営するカサブランカのカジノクラブ兼酒場に逃げてきた昔の恋人バーグマンに再会する。彼女は夫とアメリカに逃げようとしてカサブランカまで逃げて来た。そこで再会した2人は揺れる。しかし彼女には夫がいた。
 しかもその男はあまりにも立派な男。ボギーはジェラシーも手伝い、2人の脱出を最初は邪魔をする。ボギーは当然のごとく女に迫る。女も縁りを戻そうとする。しかしボギーは冷静になって自分と連れの男を比べる。そしてこの瀬戸際でボギーは本当の男の優しさを出す。  
 「俺みたいなヤクザな男と暮すより、この女の本当の幸せは?」。そこでボガードは熱くなっている女に冷たく言い放つ。「お前はあの男と行きな」。女は目で言う「なぜ?」ボガードも目で。「俺みたいな男よりお前にはあの男の方がふさわしい」。ここがこの映画の見せ場。ボガードは寂しさを体全体で表わしながら彼女を飛行場で見送る。なんとも良い映画でした。
 少し私の脚色が入っていますが大筋はこんな所でしたか。

さてバーグマンと一緒にモロッコに逃げて来てドラマを作って去って行った地味な男こそ主人公カレルギー氏のモデルとなった男です。尤も悪役ボガードが主役だったので映画の中ではカレルギー役の俳優は影が薄かったが。
カサブランカに行くと映画の中でボガードが居たと言うモデルのバーが有るが、撮影は全てハリウッドとの事。
 
現地に行くと映画の中の埃っぽい感じは全くない。近くに砂漠はない事に皆驚く。砂漠はずっと南の果てまで行かないと出てこない。アトラス山脈を越えてから、しばらくしてやっと砂漠は出てくる。
 そうです、この国は海水浴が出来る、スキーが出来る、砂漠も有る、おまけにアラーの神が居るというとても面白い国なのです。 フェズやマラケシュ辺りに行くと気が狂うほど強烈な印象を受ける。本当の旅好きはこんな国がお奨めかもしれぬ。

話を戻すが、何かの拍子に女性達とEUの話でも出たら、ここで「みつこ」さんの話をしてさりげなく貴君の教養を見せてはいかがか! 深夜のTVなどで「カサブランカ」をやっていたらチャンス。彼女にビデオを薦め、知的サイドから彼女に迫るというのは如何なものだろうか。

悪役が似合うボギーだったら、次の様に渋く言うかな。
『男と女の事?ごちゃごちゃ言うんじゃないぜーベイビ』
「そこでボギー、女を荒々しく抱きよせる」 カット。  今日の撮影これまで。

プラハの春

                   プラハの春
中欧の旅が増えてきている。チェコ・オーストリア・ハンガリー・を巡るのが通常だが、キャッチコピーを一言でまとめれば次のコピーであろうか!!
『チェコのプラハが醸す古さと情緒・オーストリアのウイーンが誇る音楽とハプスブルク王家の華やかさ・ハンガリーのブダペストの夜景とジプシー音楽。』音楽好きや歴史好きにはたまらない。ここが増えているのも分かるような気がする。
今回はチェコのプラハを見てみよう。
ユネスコの文化遺産の中でも町そのものが文化遺産の指定を受けている町はフローレンスを始めヨーロッパには数多くあるが、多くの中世映画の撮影にプラハが良く使われていることを見てもこの町の特殊性が良く分かろうというもの。映画好きでなくてもモーツアルトを描いた「アマデウス」あたりはご存知であろう。
 この監督がチェコ出身のハリウッド監督ということを差し引いてもあの映画のほとんどがこの町の旧市街を使って撮られた。この町がそれほど中世のまま残されている証拠である。
 古い町ということではイタリアの諸都市を除けば北ヨーロッパではここが筆頭であろうか。それゆえ「古さと情緒」というコピーがご理解いただけたであろう。現代映画でもT-クルーズの「ミッションインポシブル1」でカレル橋の周りが印象的に出ているので次にTVで見るときは注意して見て欲しい。

今年はベルリンの壁が崩れて20年記念ということで68年と89年のチェコの民主化の舞台としてよくTVに出ていたバーツラフ広場という所を紹介したい。プラハの春の舞台である。
 歴史を知らない人の為に少しレクチャーするが、この広場は68年ドプチェクたち共産党首脳部の民主化宣言に驚喜したプラハ市民をソビエトの戦車が潰した場所であり、89年はベルリンの壁の崩れに伴い、再びドプチェクや初代大統領ハベル・体操の名花チャスラバスカ選手達がこの広場に集まって来た市民に自由化を宣言したところである。特に89年の革命は一人の血も流さなかったのでビロード革命と言われ世界中の文化人達に賞賛された。
 
広場といっても何十万もの人たちが集まれるほどの大きな通りである。旧市街の中心から10分程の所ゆえ、プラハ観光の自由時間には是非足を伸ばして欲しい所である。近くにミーシャの美術館もあるので見終わったら足を伸ばすのも一興であろう。

この広場の端・国立歴史博物館の重々しい建物の近くに胸を打つ記念碑があるので探して欲しい。それは68年の民主化弾圧に抗議して死んだ2人の若者のお墓である。ソビエトの戦車に潰されたのを悲観した2人の青年がソビエトに抗議して焼身自殺したのを記念したお墓である。2人のヤンという名の20歳前後の若者の名前がプレートとして貼ってある。

この2人の死の意味を忘れまいというチェコ人の決意がこの墓に表れている。秘密警察でがんじがらめになっていた国家をじかに見た私にとっては共産主義国家が滅びるのは絶対にありえないだろうと思っていたのでこの若者2人の気持ちが痛いほど分かるのである。

 気になっていることがあったので、この墓の近くを通りかけた2人の若い警官に聞いてみた。「89年の自由化宣言の時にドプチェク達などの自由化の旗手たちが集まって来た民衆に手を振ったテラスはどのビルだ」と聞いたら、「うん、その名(ドプチェク)は聞いたことがある。でもどのビルだか分からない。」仕方なくその辺を通る年寄りに聞いてみたが、皆英語は分からず足早に去ってしまったので、どのビルかは分からずじまいであった。
共産主義独裁が壊れるという事は確かに大事件ではあったが、私にとっては暗闇の中で驚喜した民衆に手を振っていた自由化の旗手達のあの笑顔がいつまでも忘れられない。

「自由化の旗手達よ、名前も過去になりにけり」か。自分が歳をとったのを感じた2009年の秋でした。

ドイツの小麦ビールとロマン王

ドイツを旅するとビールの銘柄の多さに驚く。大手ではHB社とライオンマークのルーベンブロイ社が有名か。
ミュンヘン周辺だけでも300社は有ると言う。日本酒の地酒屋感覚である。 私自身の好みで言えばワインが先に来るが、やはり運動後に飲んだ時の爽快感を思うと生ビールを発明した人は本当にノーベル賞ものとはうなずける。
 本来アルコールが強くない私にとってのビールとは運動後の最初の一杯がすべてという感じの飲み物だが、こんな私でもいつも食事の時にドイツで飲むビールが有った。白ビールの一種である、「バイツェン・ビール」と言う小麦で作ったビールである。長いブーツ風グラスにレモン・スライスを入れて飲むのが一般的な飲み方である。

このビールの特長は苦くなく、水代わりにがぶがぶ飲めることだろうか。水では物足りないが、さりとて軽いアルコールが欲しいという人にはお勧めのビールだ。 初期の頃レストランで水を頼んだ時ビールと同じくらいの値段を取られたのが悔しくて、それならビールをと頼んだのが始めだったと思う。もっともドイツの塩辛い食事にはどうしても塩気を中和する軽いアルコールが欲しくなるのだが。

特にバイエルン州フュッセンの白鳥城(写真参照)の麓で飲む「バイツェンビール」はまさにノーベル賞物と言って良いかも知れぬ。不思議とバイエルン州以外では、何処のレストランでもすぐ見つけられるビールではない。
ただ本当の酒飲みの感想によれば気の抜けたビールの様な味で美味くないとの事。気の抜けたビールとは言え、アルコール度は5%もあるので、全くのアルコール嫌いには、さすがにお勧めできない。繰り返すが付き合いで一口だけという人にお勧めのビールと言う事をお忘れなく。
 日本で強いて近い味を探すと言えばスーパーで時々見かける「銀河高原ビール」(?)とかいう名前のビールが比較的近いかもしれぬ。お試しあれ。

ドイツのビールと言えばすぐミュンヘンのオクトーバフェスト(10月祭り)が有名。10月には100万都市のミュンヘンに数倍の観光客が来るとの事。昼は名城ツアー、夜は市内会場に作られた大手ビール会社のテント内のショウーを見る。そのショーたるやアルプス周辺に昔から伝わる農民達の素朴な踊りやヨーデルが中心だが、見るというよりは祭りの雰囲気に酔うと言う方が正しい。
 祭りの出店を冷やかしたり、普段内気なドイツ人の陽気に騒ぐ変貌振りを見たりと、この祭りの喧騒・興奮に浸るのは一見の価値がある。祭りの帰りに寄り道してミュンヘンで一番大きなビアホールHB へも足を運んで見よう。ヒットラーによるナチス党の旗揚げがあったという王宮付属の醸造所である。
寄り道しても損はない。

かっちりしたイメージのドイツの中でバイエルンという州、ビールはもちろんだがロマンチィク街道、
アルプスの景色、歴史、城や教会などが味わい深く、文化の香り高いドイツNo1観光州で有る。
 中でもディズニー映画のモデルとなったルードウッヒ2世(写真参照)の作った城と彼の悲劇がどうやら女性達の心を騒がせる様だ。この狂気のロマン王の事はここでは省くが、彼の作った3つの城を見れば誰でも
ファンになるであろう。まさに日本人好みの州“バイエルン”である。

その辺の詳細をもっと知りたい人はルキノ・ビスコンティ監督「ルードウイッヒ2世神々の黄昏」の映画をお勧めする。映画ではホモの人の繊細さが充分に描き切れてなかったように思われるが、ビスコンティ世界特有の凝ったセットや歴史実話として見れば充分に楽しい。
 ミュンヘンを本拠にしてバイエルンを支配したビッテルスバッハ王家の滅亡して行く様が良く描けていると思う。森鴎外は留学先のドイツでルードウイッヒ王の謎の死に出会いその事を小説に書いている。

史実によると王はホモであったとの事。「ホモの監督がホモの人を使ってホモの一生を描いた映画」という事で少し分かりづらい部分もあったが重厚且つ格調高い映画である。
 こんな事を言うとせっかく見ようとした人を怖気させてしまうかと心配するが、見て損はない一押しの映画である。いや絶対見るべき映画であろう。
 后妃エリザベート役がいい。彼女の美しさは伝説になっているが、ロミーシュナイダーが良く演じていた。彼女の優雅さや美しさを見るだけでも価値がある。  
今日の主題はやはりビスコンティと淀川さんに敬意を表して
ビールで「乾杯」そして 「サヨナラ ~ ~」 若い人にはこの落ちは分かるまい。

コーヒ夜話

漢の時代、中央アジアにいた匈奴の末裔と言われるオスマントルコ族が遊牧をしながらトルコ半島にまで到達したのは13世紀の事。 
 当時その地にあった東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル(今トルコのイスタンブール)を滅ぼし、この西欧と東洋のつなぎの地にあったコンスタンチノープル(古名=ビザンチン)からイスタンブールと名前を変え、改めて首都を置いたのは1453年。 それから100年と少しでイスラムの半月旗がバルカンからハンガリーを席巻し、当時の神聖ローマ帝国の首都ウイーンにまで攻め上って来た。
 
ウイーン包囲戦は二回あるが、その時に囲まれたウイーン側の人達が今日の主題であるコーヒを始めて知り、西欧にもたらしたというエピソードが今日のお話。 その攻囲戦とコーヒの逸話を紹介する。
1:トルコに囲まれたウイーンの皇帝が既にコーヒ豆の事を知っており、援軍を呼びに行くメンバーに、それが成功したらトルコ軍の持っているコーヒ豆の独占販売権を与えると約束し、成功したとの説。

2:援軍を呼びに行く人を募った所、トルコ人とのハーフがコーヒー豆の事を知っており、その男が「成功した暁にはコーヒ豆の独占販売権を貰う」との確約を取ったとの説。
 その男はトルコ語が分かったゆえ、上手く囲みを突破し援軍を呼べたとの事。

3:援軍が来て囲みが解け、逆に逃げるトルコ軍を西欧側が追うと、黒いコーヒ豆が一杯残っていた。
『この良い匂いは何だ。コーヒと言う飲み物らしい。どうしましょう皇帝様。』『それでは今回の戦いで一番勲功が有った者達にこの豆をやろう』この説がエッセイ的には一番面白いが。実際のところ3つの説のミックスであろう。
 
以上な様な経緯でコーヒは西欧に入ったとウイーンの人達は言うが、実はイタリアのベニスの商人経由の方が早かったと思われる。その根拠として8世紀から彼らは交易相手としてトルコは勿論エジプトなどアフリカまで貿易販路を広げていたので、このコーヒーを知らないはずはなく、交易品の中に必ず入っていたろうという説である。
 という事でオーストリアの人には悪いがベニス経由の方が時間的には早かったという説を取りたい。
何はともあれ二つのルートで西欧人はコーヒを手に入れたが、ネスカフェのCMで知らされた通り、エチオピア原産のコーヒ豆がアラブ、トルコ経由で入って来て一般的になって行ったことは間違いがないようである。

ベニスとコーヒと言えばカフェが立ち並ぶサンマルコ広場は必見。すぐ目に入ってくるのは小オーケストラ付きのカフェ・クワドリ。映画「旅情」の中で主人公の出会いに使われた、カフェ・フローリアン。ここは欧州最古のカフェ店でもある。そのカフェが今でもそのまま営業しているのもすばらしいが、この辺で西欧人が始めてコーヒを口にしたという話はロマンがあって面白い。
 お茶をする時はゴシップ話が付き物。その2つのカフェのうち「クワドリ」のゴシップは面白い。そのオーナ貴族と若い日本人ハープ女性奏者との恋愛と結婚話である。その金持ちの老人の死後、遺産相続で遺族と彼女が揉めたとの事。後日談によると、その日本人は遺産を世界中に気前よく寄付しているとの事。日本女性の鏡の様な人である。

話はそれるが人工に築いた島、ベニスという所、イタリアではローマ・フィレンツェに並ぶ3代名所の一つである。 しかし現代のハイテクをしても沈んで行くベニスは如何ともしがたく、いつかは海の下に沈む運命のようである。
 沈む前にそのカフェで音楽でも聞きながらコーヒを楽しんでもらいたいのだが、行けない人はここを舞台の映画を思い出しながらのコーヒは如何か。そんな事を思って飲むと「たかがコーヒ、されどコーヒ」になること請け合いである。

話は戻るが、ウイーンへ行ったら必ず皆ウインナコーヒを飲む。ただウインナコーヒと頼んだのでは生クリーム入りのコーヒはいつまで経っても出て来ない。そんな名前のコーヒはない。そんな時はカフェ・アインスュペンナーと言ってください。ついでにウイーンらしく「ザッハートルテ」などのケーキを添えるとお洒落かも。
 田舎育ちの私にとってかなりの年までウインナコーヒとはモーニングサービスとやらで小さいウインナソーセージがパンと一緒にコーヒの横に付いている物とばかり思っていた大変な田舎者でした。
         『あのーこのコーヒ、ウインナソーセージが付いていませんが?』
 こんな話で彼女とのティータイム、一時間持ちます?

ベニスのカーニバルを見て

ニースとベニスのカーニバルツアーに行く。カーニバルといえば日本人にはリオのカーニバルがすぐ思い浮ぶが、この祭りは欧州の方が老舗である。 リオの裸に近い男女の踊りながらのパレードの印象が強すぎるが、花の町ニースは花を投げあう花合戦パレード。ベニスの方は顔まで隠す仮装パレードが有名である。
 ニースもベニスも欧州らしい華やかさや祭り特有の高揚感、地元ならではの工夫があり楽しい。そもそも人はカーニバルが宗教的行事といえば驚くかも知れない。リオの裸に近い踊りが宗教的とは少し縁遠いが、暑いリオであの形になったのは場所柄であろう。

カーニバルとは4月に来る復活祭というキリスト教の宗教行事に関連した前夜祭と思ってよい。
復活祭とは字のごとくキリストが死んで復活する事を祝う祭り。彼の死んだ4月からさかのぼり40日前から彼の受難を忍んで行いを慎み、食事も肉なしの質素な物にしようという、主にカトリック教徒の禁欲行事という祭りで、復活祭につながる一連の宗教行事である。
 それゆえ禁欲が始まる前の1週間は飲んで食べて歌って陽気にやろうという趣旨の祭りがカーニバルだ。カーニバルの語源カルネとはラテン語で肉の事であり、バルとは行くとか絶つという意味ではなかったか。まさに禁欲前に思い切り肉を食べ飲み騒ぐのである。

キリスト教徒にとりイエスの死と復活は一番の関心事である。それゆえ復活祭に至るまでの祭りも派手になろうというものである。祭りの高揚感はどこでも似ているが、祭りに共通している事と言えばなんといっても無礼講であろう。それゆえ未婚の若者達にとっては正にハレ舞台であるし、既婚の者にとっても何かしら心騒ぐハレなイベントである。

一番派手そうに見えるベニスの仮面や衣装を見てみよう。貸衣装代がものすごく高い事には驚いたが、高いだけあり仮面と衣装は奇抜で派手でギョッとさせられる。しかしパレードが意外とおとなしい事に気付くだろうか。表側では見えない裏側のパーティ会場がメイン会場だからである。表側しか見えない観光客には地味な祭りに写るかも知れない。こんなからくりは、やはりベニスという国の歴史を見れば分かる。

ベニスのように貿易に国の生命線を頼っていた所では一緒に祭りを祝うはずの夫が船に乗っていて何年も帰らない事は珍しい事ではない。そんな特殊な場所では貞淑な貴婦人でも、また愛人予備軍も一年に一度くらい仮面や衣装で自分を隠し表に出て狂いたかったのかも知れぬ。
 今と違い貞操がうるさく宗教の力の強かった中世ならば恋も命がけである。そんな時代に祭りの仮面は格好の隠れ蓑の役割を果したのかも知れぬ。

ベニスのような狭い場所では人目もうるさい。そんな所では自分を隠し大いに発散するイベントが年に一度位必要だったのではと推測する。変な噂も浮名も喧騒の中でかき消される。
 船乗りの殿方達も自分があちらこちらの女性と浮名を流すのに、妻だけ縛る不合理さを感じたかも知れぬし、また自分自身、若き日に留守亭主の目を盗み年上の貴婦人と浮名を流した贖罪か?
 それゆえ妻達に1年に1度位大きく発散出きる場所と時間を与えたと思うのはうがちすぎだろうか。こんなことをいうと中世のベニスの女性や男性が全て浮気者のような印象を受けられては困るのだが。

ベニスの仮面や衣装が派手になったのはベニスが全盛期を過ぎた頃からと聞く。通常どこでも文化芸術が全盛になるのは国の絶頂期を過ぎた後、貯めた金を内向きに使い出してからである。
 そう言えばオペラもベニスから始まったというし、ツィチアン、チントレット、ベロネーゼなどの絵の巨匠、テレマン、ビバルディ以下のバロック音楽の巨匠達も17世紀、ベニスの全盛期を過ぎたバロック時代からではなかったか。

中世のベニスに思いが浮かんでふと日本の事を思った。どうやら日本も全盛期を過ぎたと言われ始めているが、ならば金を貯めるだけでなく何か世界に名を残すような芸術家達が出てくれないものであろうか。
それともまだ日本は延び盛りの国なのだろうかと祭りの喧騒の中で考えた。
 「全盛期 過ぎてもせめて 平行に」    日本経済の健闘を祈るのみである。

コロッセオで殺して 1

今日は2千年前のローマ遺跡コロッセオについて。欧州には数々のローマ遺跡があるが、ギリシャ・ローマ文化が残した遺跡でこれほど2千年前が生き生きと目の前に浮かび上がる遺跡はここを置いて他にあるまい。
 映画グラディエータでお馴染みの人間同士が、或いは人間と猛獣がこの中で戦った例の舞台である。 現代スタジアムの起源もギリシャ・ローマの闘技場から出ていることは皆知っていても、もともと祭りの時に神を祝う為の舞台であった事は意外と知らない

競技場と言えばオリンピアの地で行われた古代五輪は余りにも有名だが、ギリシャでもスポーツ競技は神々を祭るイベントの一部だったという。ギリシャ・オリンピアのメイン会場は長方形の遺跡として今に残るがローマの楕円形の競技場とは形が違う。
 運動競技も直接戦争に結びつく槍投、円盤投、短距離走などが主流であった。距離を必要としないレスリング・ボクシングや祭りに不可欠の演劇などの小型舞台は別の場所に半円型の遺跡として今も残る。
一方ローマの円形闘技場は将軍達の凱旋記念や、ローマの神々に捧げる祝日用のイベントとして剣闘士などの戦いに使われ、古代ギリシャ五輪や現在五輪とは少々趣きを異にしていた。少しローマの円形闘技場の事を述べよう。

現代五輪スタジアムのモデルとなったローマの円形闘技場コロッセオであるが。収容人数5万人の規模であり、円形の為か音響が良く、熱い日差しをさえぎるテントまで上空に付けられているなど随分ハイテクナな闘技場であり、規模の点ではカプアに次いで大きく、破壊度を免れている点でも現存する円形闘技場跡の中での代表的な遺跡と言ってよいであろう。
 また5万の観客の出入りが10分ほどで出来た機能的な所など現代技術に勝るとも劣らない。5万という数は人間の興奮の度合いが視覚、聴覚とも拡散されない大きさの限界なのか?建造美に於いてはもしかして現代より上かも。

 このコロッセオはネロ帝死後、別な皇帝一族によりネロ帝の敷地跡に建てられた。パンとサーカスのサーカス部分として滅ぼされたユダヤ人奴隷を使い、機械もない時代に8年足らずで作り上げた闘技場である。建物が巨大だからではなく巨大(コロッセオ)なネロ帝の黄金像が側に立っていたのでこの名が付いた。
 今では競技場の事と思われているアリーナと言う言葉もこの闘技場から来ている。古代闘技場の床の上に敷き詰めた真っ白い砂の事と知っておいてもらおう。高らかなファンファーレと共に、床の下から手こぎのエレベータで上がってくる猛獣、東西から役者気分で登場する剣闘士同士の殺し合い。
 その興奮度たるやアリーナという砂の白さと血の赤の対比も有るが、プロレスやボクシングの比ではあるまい。正に娯楽の頂点ではなかったかと推測する。
 野獣同士、人間と野獣、人間同士の殺し合い、それらは古代ローマの映画「グラディエーター」にゆずろう。ただ時代も経つと剣闘士の成り手も自由市民からの希望者が1/3も居たところを見ると、今の花形スポーツ選手に似ているか。また何回も勝ち進んだ、すなわち生き残った奴隷の中には皇帝や貴族に買われ自由市民にもなった幸運者もいた。

ただ残念と言うか当たり前と言うか、武張った事が好きだったローマ人もキリスト教の普及と共に優しくなり、血を見る競技は廃れて行った。476年ゲルマン民族の侵入によりローマが滅んで100年ほどすると殺し合いの競技はなくなり、古代ローマ遺跡は新たにヨーロッパを支配したキリスト教の教会を作る建築用資材の石切場になり、現代の形にまで崩れてしまった。
 その中でも巨大なコロセウムは一番の被害に会った模様。だから今我々の目前にあるそれは古代の1/3の大きさである。ちなみにローマ人は「コロッセオが崩れる時はローマが滅びる時」との事。
けだし名言である。

いつか奥方とローマに行ったらその大きさや、建物を支える美しいアーチを見て欲しい、それらは下からドーリア式、イオニア式、コリント式の柱として残っている。その調和美などは必見。目前にすればローマ人の土木技術がいかに進んでいたか、或いは美的センスの良さなどが理解出来よう。
 今では剥されてしまった美しい大理石や建物を飾る数々の彫刻が有ったとの事。現代建築家達にとっても垂涎の的である。ローマに行けば真っ先に見るべき遺跡の一つであろう。

コロッセオを前にして二千年前の古代ローマ人の歓声や息吹、喧騒に思いを馳せるのも旅の楽しさの一つである。 廃墟の中でたたずみ、古代ローマ人の声が聞こえて来たら、貴方はロマンが有る人。
 また遺跡を前にロマンの世界に浸れるような女性が側に居るなら貴方はこの上ない幸せ者だろう。

それとも「こんな所より早くグッチに行きたーい」類いの女性しか側にいない不幸者であろうか?
 時としてこんな女性の方が理屈抜きに楽しい場合もあるのですが。!               
 「グチグチ言うよりグッチに連れてって」 てか!

コロッセオで殺して 2

ローマに残る円形闘技場コロッセオは競技場であった事に間違いはないが、皇帝が民衆に顔見せを行い、その民衆から審判を受ける場所でも有った。良い政治なら喝采、悪ければブーイングの嵐。
 ネロ帝の様に皇帝といえども余り無理なことをすると民衆から自死を迫られたり暗殺された皇帝がなんと多かった事か。
強大の権力を持つローマ皇帝とアメリカの大統領を比較するのはナンセンスであるが、両者の違いは期間の差(皇帝は死ぬまで)位しかないというと言い過ぎであろうか。ローマ皇帝も意外と民の声を無視して政治は行われなかったようである。

ローマの滅びの原因は皇帝の独裁機能が行き過ぎてしまったからではないか。チェック機能がない独裁は組織を中から腐らせる。これはローマの歴史が証明済みである。
 ゲルマン民族に滅ぼされたのが史実だが、ゲルマンという外因は有ったにせよローマは中から滅んだといっても過言ではないだろう。何故ならローマの千年近い歴史はずっと外敵との戦いの連続だったからである。ゲルマン民族とて、かっては何回も押し返し、征服してきたのだから。
 興味がある人は「塩野七生」女史の「ローマ人の物語」がやさしく面白く読めるであろう。一度は読まれる事を薦める。

だから組織を大きくしたかったら、ある程度の独裁を認めるべきである。しかしそれもローマ全盛期やアメリカの大統領制の様にそれをチェックする機能が健全に働くようにしておかなければ反対に滅ぶ。  
 それゆえ権力が集中している組織はチェック機能さえしっかりしていれば、かえって決断が早い分、効率が良い。それゆえ指導者が有能ならば早く大きく強くなれることは間違いない。
これこそ暗殺されたシーザーが目指した所ではなかったろうか。

グローバルな時代では、広い視野と将来を見据えた戦略、その上にスピードが求められる。そのスピードゆえに独裁型つまり皆の先頭に立って引っ張って行く西欧型の騎馬民族型の指導者が望まれるのかも知れぬ。
 従業員の多寡に拘らず経営者と名の付く人は歴史映画や歴史小説を学ぶ意義をこんな所に見出しては如何であろうか。今日は真面目すぎて落ちもなくごめん。
  おっとと。歴史も学ばない経営者のいる会社は潰れてしまいますよ。ご用心

NZのゴルフとキューウィ・ハズバンド

NZの南島クライストチャーチ市に有るハグレー公園内のゴルフ場は相変わらず安い。ホテルの無料自転車で、公園に散歩に行きながらの経験だがクラブを借りても2千円前後。
 むしろボール代とか、ティーなどの付属品がゴルフ代に比べて高い。プレー費が安い分、当然ながら日本のような立派な受付も食堂もない。夕方管理人が帰った後は、“クラブをこの小屋の外に置いておいてくれ”との返事。治安が良かった昔の日本を思いだす。

平日の午前にプレーする人は近所の奥さん、リタイヤした年寄りが2組もいれば良い方。信じられないくらい空いている。それゆえすぐ声を掛けられ仲間に誘われる。それでも昼から少しはプレーする人が出てくる。幾らやっても料金は同じとの事。ビンボ-性ゆえ昼はサンドイッチを食べながら続ける。
 ゴルフ場に隣接している公園内にある他の運動施設の方が人の出が多い。公園に隣接する女子中(高)学校の体育の授業らしき物を見たがラグビーだったのには驚かされた。
女学生がラクビーですよ!そういえばここは最強ラクビーチーム・オールブラックスのある国であった。

昔ここのゴルフ場で一人で来ている老人から一緒にゴルフをやろうと誘われてゴルフの楽しさを初めて知ったのを思いだした。ゴルフはへたでも2人で競争すると、より面白い事を発見。
 それゆえゴルフの出発がマッチプレーというのが素人ながら分かったような気がした。
当時日本のゴルフ場が高かったせいかゴルフなど見向きもしなかったのに、ここNZでは前後を気にせず、その上お金も気にしないゴルフをしてから初めてその面白さを知った。  

ゴルフの後にその老人から夕食に誘われた。家の中まで入り年寄り夫妻と下手な英語でサンドイッチとワインだけで話をした。後で分かった事だが、家に呼ぶという事は大変な歓待との事。

家の中で感じた事を記す。まず綺麗に片付けて有るのが印象的でした。
 無駄な物が無い。質素。本当にNZの男はガイドブック通り働く「主男(しゅふ)」と言う事を発見。
これをキューウィ・ハズバンドという。それについて少々解説しよう。

移民当初、女性が少なかったせいなのか、男は家事をせざるを得なかったとの事。女手の少ない開拓当時、男も家事をせざるを得なかったのでその伝統が残ってしまったのだろう。
 男の子も小さい時から父が家事を手伝うのを見て育つので自然に男が家事を手伝うとの事。それが全然嫌味でなく、当たり前の様に見え違和感無く見えた。
 NZの女性は米国女性の様に不思議とイバって見えない。男に何か頼む時その中に愛を感じたのも私の贔屓目か。

日本の女性達よ日本で売れ残ったらNZにおいで。こんな日本人の女性が~!みたいな人が結構いい男と結婚しているのを沢山見ているのですが。他の外国で掴まった花嫁達より皆が幸せそうに見えたのは私の贔屓目か。確か婦人参政権とか、その手の権利はフィンランドと並んでNZは世界一早い。
とにかく女性が強い国と肌で感じた。

NZの男の事をキューウィ・ハズバンドと呼ぶが、良く言ったものだ。この国の国鳥キューイは卵を生んだ後、卵の世話は自分の亭主に押し付け、すぐ他のオスを探しに出ていってしまうとガイドが笑っていたが。 なんともはや羨ましいメス鳥である。ウーマン・リブが聞いたら泣いて喜びそうな話であろう。

もっとも今の日本の若者達もNZの様に共稼ぎが多いから、男が半分やるのは当たり前のカップルも増えて来た様だが、家事が嫌いな私としては、NZに生まれなかった事を感謝せねば。
 キューウイ鳥のように『旦那と畳は新しい方が良い』などと言われないよう私も気をつける事にしよう。 
 「リブが言う 私も成りたや キューウイ鳥」 てかー 今日は女性にお叱りをうけるだろうな

パルテノン 神殿を前にして

ギリシャに行ったらアテネのパルテノン神殿を真っ先に見て欲しい。誰もが大きさ美しさに感動するが、これほどの遺跡を作れたアテネの富や、大国ペルシャと互角に戦った強さの秘密にも感動して欲しい。 
 強さの秘密はもっぱら貿易で稼ぐ経済力とアテノの民主主義の力を挙げる歴史家が多い。
アテネ市民の自由はペルシャの独裁より強しという事であろうか
 
今見るパルテノン神殿は2500年ほど前マラトンで負けたペルシャ側が復讐戦と称し本格的な大軍で攻めて来た時に壊されたペルシャ戦後再建された物である。
 破壊されたアテネの再建にペリクレスという有名な政治家が出てきて活躍する。中でもパルテノン神殿の再建には他のポリスへの威信のためにも国家プロジェクトとしてアテネは勢力を注ぎ込む。
 それは彼の政治基盤の支持層に職を与えるためにも必要な事業であった。その時の建物が今に残るパルテノン神殿である。
 
このパルテノン神殿はアテネ中心部アクロポリスの丘の上に立つ神殿群の中で一番大きい。中にはアテネの守護神であるアテネ女神の像が祭られており民衆に崇拝されていた。
 この建物を含む神殿群を目の前にして、すぐ感じるのは大きさと破壊の凄さである。破壊は17世紀アテネを占領していたトルコと攻めるベニス側との死闘の結果であるが、ベニス側の打った大砲がトルコ側の火薬庫として使っていたパルテノンに当りこの神殿と丘を大破したのである。
 
最初に目前にした私は他の人と少し違う所に感動した。つまりこれだけの物を作る当時のアテネの社会組織にいたく感動したのだ。つまり建築技術ばかりでなくそれを支える進んだ社会があった事にだ。 
 今に劣らない政治、経済は勿論、進んだ自然科学や哲学などが、あんな昔にあったという事にショックを受けたのだ。ソクラテスやプラトンの少し前、日本の時代ならば縄文時代の終わりの頃である。随分の差があるものだと不思議な感覚にとらわれた。

そんな社会の成熟度を示す物差しに美的センスがあるが、どの位ギリシャ人が美への追求に進んだ目を持っていたかアクロポリスに登れば納得。
 丘を登りきるとパルテノン神殿の大きさと美しさが目の前にドーンと入って来る。斜め正面と横のラインが両方見えて来る神殿へのアプローチは感動的である。
 大きい建物は正面から見ると平面に見え易いという事で、わざと斜め45度の角度をこちらに向けている。この角度こそ美の極致である。斜めから全体を見せるその計算されたアテネ人の英知をこの建物に見る事ができよう。
 柱のエンタシスや稜線のふくらみ、空間の広がりなどは現地で実際見て欲しいのだが、今これだけの感動を与えるのなら、色も付いていたといわれるオリジナルはどんなに感動したか想像出来る。
 本当に女神が神殿内にいてもおかしくはないと当時の人は思ったことであろう。
 
パルテノン奥の至聖所に立っていたという巨大なアテネ女神像だが、神話ではゼウス神の頭から生まれ、戦争や、英知、技術の神として当時の人にゼウス以上の信仰を集めていた女神である。
 首から上は象牙、頭部の兜は純金で覆われ、建物全体より費用的には高くついたと伝わる。この像はローマの衰退と共に無くなってしまったが、女神像の縮小版コピーがアテネの考古学博物館に置いてあるのでご覧あれ。ただ余りにも人形的すぎて神とは程遠いのが残念である。 
 
考古学が好きな人には神殿の壁面を飾っていたレリーフや彫刻群が納まっているロンドン大英博物館のエルギン・マーブルの部屋をぜひ見て欲しい。19世紀初期、当時のトルコ駐在イギリス大使エルギン公爵によってパルテノンから持って行かれた一連の彫刻群である。
 ギリシャの女優で後の文化大臣になったメリナ・メリクールが晩年まで英国に返せと言い続けた事でも有名な作品である。ギリシャの遺跡も大英博物館を見て始めて分かると言う皮肉な結果になっている。

歴史好きには2500年の歴史を眺めてきたアテネ女神を思い描く事が出来よう。アレキサンダーやシーザ等の英雄にかしずかれ、ローマやベニス、トルコ人達の歴史を眺め、現在ギリシャ人の前にたたずんでいる姿である。アクロポリスの麓から聞える異教キリスト教の鐘の音に煩わされながらも力あるオリンポスの神として我々を見守っている姿である。

歴史好きな人にはギリシャ本土の旅を勧めるが、良いガイド、添乗員に恵まれなければ毎日石ころを見に行くツアーになるので無理には奨めない。
 10日ほど有るならやはりアテネと南の島巡りでのんびりと『エーゲ海にそそぐの』の世界に浸るのが無難であろうか。
「ただ何もしないで、しなびたかーちゃんと海辺でじっとして居れればの話ですが」

我が心の故郷ニュージーランド(NZ)とマス

誰しも心の故郷と言える場所をお持ちだと思いますが。私の場合NZがそれです。NZのツアーがあるたびホットして帰って来たものでした。親切、おっとり、白人にしては差別が少ない、羊と牛しか目につかない。自然がきれい。人間の数の何十倍の羊や牛が居る事で、自然の美しさは想像できるでしょう。 
 その他、日本のしょうゆが手に入りやすい、安いロブスターの刺身、1000円前後で出来たゴルフ、温泉や、土ボタルなんて言う珍しい観光スポット、南島の雄大な自然などなど。添乗員をやった者の中にはNZを第二の故郷にしている者が結構多い。

しかし、いつ頃からだろうか豪州、NZツアーに添乗員が付くツアーはほんの一部になってしまった。
 理由は幾つか有るが,永住の日本人が増え添乗員が必要でなくなった事。オージーやNZの若者達が就職に有利という事で高校の第2外国語で日本語を選択する人が増え、日本語を話す現地の白人が増えた事。
 またワーキング・ホリディという働きながら学べるビザ制度のお陰で日本で1年間学んだ彼らが帰国してガイドになるためであろう。

時々日本人よりきれいな日本語をしゃべる若い白人ガイド来て驚かされる事があるが、そんな若者達は殆どワーキング・ホリディ・ビザで日本に来て、1年日本に居た人が多い。
 そこへ持って来て治安も良ければ、わざわざ日本から経費の掛かる添乗員をはずし、現地でまかなうと言うのは自然な流れであろう。

今回本当に久しぶりにNZに行ったが驚かされた事がある。南島のクライストチャーチの町の中心を流れるエイボン川に、溢れるばかり泳いでいたマスが全く見られなくなっていた事であろう。昔は町の中に大きなマスが泳いでいただけなのですが、なぜか私にはそれが新鮮で非常に感動した事を覚えている。

マスの減少の理由はなぜかと考えてみたが、もしかすると何でも食べちゃう中国系移民が増えたせいではないのか、などと彼らには失礼な推測をしたが。
 わがもの顔に闊歩する中国人が増えたのをみて半分は私のジェラシーかと自分の器の小ささを実感。東洋人といえば日本人しか、それもほんの一握りしか目につかなかった昔は良かったなーと川を見つめながら複雑な気持ちになった。また現地の白人達がこのマスの減少の件に付いてあまり騒がない事にも感動し、NZ人の懐の深さを感じた。

ベトナム難民や香港人(香港からの移民は金持ちが多かったとはいえ)を引き受ける包容力は日本人には真似できまい。価値観の違う者と一緒に住もうという試み、これこそが究極のヒュ―マニズムではないだろうか。
 この10年で300万の人口が400万になりNZは経済的には盛んになったが、わたし的にはこのマスの減少をみた時「昔は良かったなー」と昔を思いだして複雑な気持ちになってしまった。

ある中国人のタレントが日本に来て最初にハトの群れを見た時、発した言葉を思い出してしまった。
『わーあのハトうまそうー』 そのタレントの弁護の為に私から一言。
日本人観光客がエジプト名物のハト料理を前にして発する言葉は皆一緒。 
『本当にハトを食べるんですかー?!……いざ食べると…皆一様に言う!美味いー!!』 

ハトのフン公害で悩んでいる自治体の市長さん、ハトを自由にお捕り下さいなんて看板を中国語で立てれば、1週間でハトは居なくなるかも知れませんなー。今日は最後まで中国へのやっかみだったな。

生ハムと酒池肉林

イタリアとスペインを旅すると日本人観光客が必ず美味しいという食物がある。それが生ハムである。ハムと言えば日本では色々な肉を混ぜ合成保存料たっぷりの贈答肉のイメージが強いが、ヨーロッパ、その中でもイタリアとスペインのそれは、肉のあまり好きでない私でさえお勧めの一品だ。日本の生ハムはブタの種類が違うのか?

猪に似たヒズメの黒いブタの足を切り取り、簡単な塩、胡椒だけで味付けをし、吊るして一年位乾燥させて出来上がる。半分乾燥した生肉と言って良いか。シンプルではあるがワインと良く合う珍味だ。
 スライサーで薄く切り、メロンとワインで食べると、それはもうこの世の天国と言って良いほどの美味であろう。

特にお尻の肉のたっぷり付いた後ろ足がおすすめ。左右どちらか忘れたが、どちらかが値段も高く、通の人はそこまで選んで買うと言う。ブタ君は同じ方向に寝るとかで脂肪の乗り具合の関係なのか、左右の足の肉の付き具合が違うらしい。
 イタリアではパルマの生ハムが有名。パルメザンチーズの名でお馴染みのあのパルマ産が高級の代名詞。サッカーの中田が当初セリエAのこの町に所属して居たので有名になった地名である。

スペインでは ハモン・イベリコと言うブランドハムが最高級の代名詞。どちらとも甲乙付けがたい。私は食べていないが、同じ物が中国に有るとの事。商社の友が日本に入れたがっていたのを思い出す。

日本ではうっかり成田へ持ち込むと、成田の動植物検疫で没収させられてしまう。本当は税関員が食べたくてという噂が立つほど美味なのだ。早く規制が取れて安く腹いっぱい食べたいものだが。

食べられるブタ君には可哀相だが、殺されるまで彼らも天国のような生活を送れるのです。スペインで聞いた話だが、彼ら彼女らブタ君達は大きな樫林の中で人間も食べようと思えば食べられるほど美味しい「どんぐり」を好きなだけ食べさせて貰い、寝泊まりする宿舎は一ヵ所。ガイドはこれを男女混浴、酒池肉林と言った。

平均ブタ君の一年を人間の10歳位と計算して、3~4年くらいで出荷されるとすると、これまた想像だが、人間で言えば40歳くらいまで、食べて、歌って大騒ぎ、一日中フリーセックス。こんな生活有って良いの?夢ではないの?と言う感じだろうか?

幾ら殺され食べられる運命に有るとは言え、他のブタ君に比べれば、なんともうらやましい、充実した(?)一生ではありませんか。
こういう生活を我々は酒池肉林と言って、もしかしたら私だけかも知れませんが、世間の道徳をすべて忘れて一度はやって見たいと憧れるのではないでしょうか。衣食住の心配なく、自由に本能のおもむくままに生活したら、どんな感じかと想像するだけでも楽しいではありませんか。

これから何処かで生ハムを食べる機会が有ったら、酒池肉林、~、~と言いながら食べる事にしよう。そうすればより美味しく食べられる事請け合い。
 でもきっと廻りの女性たちが不思議がるだろうな。
     「何をにやにやしながら食べているの」 「いえ その–酒池肉林でして」。
   最後少し品がなくなったことをご勘弁。

一神教と多神教の功罪  パレスチナアラブとイスラエル抗争を見て

アメリカの9・11テロ以来、中東やエジプトの旅が減った。私ごときには早く平和をと祈ること位しか出来ぬが。パレスチナのアラブ人とユダヤ人の領土争いで毎日人が死ぬのを見せられるのは辛い。
 
アラブ側の主張は2千年間住んでいた土地にユダヤ人は入ってくるなと言い、ユダヤ側は2千年前に住んでいた土地だからアラブ側こそ出て行けと譲らない。ユダヤ側は4回の戦争を通してほぼ2千年前の領土を取り返し、それを守るに必死である。逆に取られたアラブ側の憎悪は激しい。
 
ユダヤ側は自衛の為とはいえパレスチナ人を殺し追出しているが、アメリカの援助がユダヤ側に偏りすぎているせいか、パレスチナや隣国アラブの若者にとってアメリカが憎い。
 
ユダヤ人やアメリカ人を一人でも殺せば天国へ行けると信じて、パレスチナではユダヤ人の中へ爆弾をもって、イラクでは理由はどうあれ駐留アメリカ人の中へ爆弾を背負って車で突っ込むアラブの若者が絶えない。
 
TVで映さないがパレスチナを追出された難民部落がヨルダンやシリアにある。その生活は悲惨である。イスラムのお坊さんに聖戦で死ねば天国へ行けると教えられれば、自爆する若者が出て来て不思議ではない環境がそこにある。父母・兄弟の仇にとユダヤ人やアメリカ人を一人でも道連れにしようとするテロの根は深い。

仕事柄キリスト教、イスラム教、及びその2つの元になったユダヤ教に接する機会が多い。それ故いつの頃からか一神教について考える事が多くなった。
 
そもそも人は物心つく頃から自然界に畏れを抱き、多神教的感覚をもつのは自然なのに何ゆえにユダヤ人は一神教だったのかと。
 多神教のギリシャ・ローマでは美しい女性はビーナスの化身とされ、オリンピックで優勝したマッチョな男はヘラクレスに近いとして銅像まで作られ崇められた。多神教の神は形而上的で分かり易い。
 逆にユダヤやイスラムの一神教を見ると、彼らの教会シナゴークやモスクに神の形は何も無い。彼等の神「エホバ」や「アラー」は祈り以外では軽々しく口にする事も、描いたり彫ったりする事も出来ない。 
何故イスラエルのユダヤ人達はエホバ、アラブ人はアラーというただ一つの神を作り、それにアイデンティティを求めたのか。ずっと自問し続けていたが、何回かイスラエルと中東の砂漠ツアーをして少しだがユダヤ教やイスラム教が分かったような気がした。
 
ユダヤ教とイスラム教が生まれた所は過酷の自然状況下で死が隣り合わせという事を肌で感じた。砂漠では水の事以外は考えられず「山の神、海の神」だのと言っていられない。強い神を求めたくなる気持ちが実感できた。
 
欧米や日本の自然は緑も水も豊富で多様である。つまり多神教的、グレイである。砂漠を体験すれば分かるが、昼の暑さと夜の寒さは極端であり、わずかな水以外はすべて砂漠。そんな風土は人間を白か黒かの二者択一にさせる。過酷な自然は極端を生み、極端な一神教の世界は他の神を認めない。  
 真面目な人ほど排他的、狂信的になって行く。ただキリスト教の場合、色々な聖人や守護神を拝むので同じ一神教でも少し肌合が違う。

中東には幾多の民族が起きては滅んだが、しぶとく生き残ったユダヤ人は神から選ばれた民という考えを持つに至る。この選民思想がユダヤ人をして他と同化させず摩擦を生んだ。
 ヒットラーを始め歴史上の為政者のほぼ全部が虐めたと言っても過言では無い。表立って虐めなかった英米二国が天下を取った事はユダヤの金融資本がいかにこの2国に貢献したかを歴史が示す。それ故アラブ・テロ組織も9・11にユダヤ金融の象徴であるニューヨークのWTCビルに飛行機を突っ込ませたのだ。

一神教の泥沼戦争を見て日本の宗教観を思う。年末24日にクリスマス、31日に除夜の鐘で仏教、元旦の宮参りでは神道をと、一週間でまとめて3つの宗教を行う日本人の方が無宗教のようで意外とバランスの取れた人種なのだと。古代ローマの様に「法律は神が作るのではなく人間が作るもの」とした考え方が健全であろう。
 
ギリシャ・ローマや日本のような多神教の、言い換えれば絶対ではない相対と言う概念の中で育った人間の方が物事に偏らず調和が取れた人間の様な気がする。
 しかし意外だが日本人の中でその多神教的中庸文化がすばらしと気づいている人は少ない。それ故日本人のような多神教的な考えの人が調停にはうってつけなのだが。
「アラーとエホバ、仲良くさせたらノーベル賞」 今日は落ちが硬くてごめんなさい。
 この件でノーベル平和賞を貰える日本人が出てほしいものだが。

ローマの軍道とローマ人の解放性

ローマ郊外のカタコンベ観光や、足を伸ばしてナポリ・ポンペイのツアーに行くと、途中2300年以上前にローマ人が作った高速道路を見る事ができる。アッピア街道という名の軍用道路であるが、これこそ「ローマは1日にして成らず」という言葉が実感出来る遺跡の一つであろう。
 
今世界は欧米がリードしているが、その基はこのローマの軍用道路にあるかも知れぬ。たかが道路かもしれぬが意外と奥が深い。その軍道の延びと共に高いギリシャ・ローマ文化が当時の蛮族であった欧州諸国の中に入り、野蛮国が文明化された事を知っておいて損はない。
 ヨーロッパおよびその支店のアメリカが世界史をリードする基が道路によって出来たと言っても過言ではなかろう。

先のアッピア街道はローマ帝国がイタリア半島を統一して行く過程で作って行ったものではあるが、注目して欲しいのはこれが近郊サムニウム人との戦いの真最中、つまり自分達が勝つとも負けるかも分からない戦いの最中にローマ人が作ったという事実である。
 塩野女史の著「ローマ人の物語」の中にローマ元老院の政治の巧みさや先見性などが語られているので詳細は省くが、一つだけローマ人の開放性というところに着目して述べてみたい。
 
西洋史を少しでもかじった者なら次の有名な言葉は知っていよう
   「高い文化を誇ったギリシャが何故に文化の低い田舎者のローマに征服されたか」。
 欧米の政治家たるや必ずローマ史を学ばねばならぬと言われる名言である。本当は日本の政治家にこそローマ史を学んで欲しいところだが。 
 アリストテレスの「アテネ人の国政」を読むと、今の我々が心しなければならない箇所を一つ探す事が出来る。それは「ギリシャ人の閉鎖性」である。アテネやスパルタが既得権益である市民権を自分達のポリスに貢献した外人には与えなかった事だ。
               歴史は我々に教えている
 「ギリシャポリスの城壁は分立、閉鎖をもたらすのに反し、ローマの道路は開放性を物語る」と。

古代ローマの歴史を見ると、ローマの為政者はそれが当然の如く他民族と手をつなぎながら大きくなっている。初期ローマが発展して行く姿で一番旅行者に分かり易いのは、ローマ村と隣のサビナ村の抗争であろうか。
 若い女性が少なかったローマ建国初期の頃、隣のサビナ村の女性を嫁として略奪した伝説である。好んで芸術家達が材題に取り上げるモチーフだ。フィレンツェ政庁前広場にジャン・ボローニアの彫刻として観光客の目を楽しませている。

そのサビナ村の男達が娘達を奪い返そうとして両者が戦争になろうとした。その時ローマ人の妻になっていたサビナ女性が両者を分けて和解を計ったという伝説があるが、こちらの伝説はパリのルーブルにプーサンの絵として画かれている。 この絵はナポレオンの戴冠という有名な絵の傍にある。
 上記2作品は伊、仏に行くと見られるので機会があれば見て置いて損はない作品である。

サビナ村との抗争などはむしろほほえましいエピソードであり、もっと血なまぐさい抗争の歴史がローマの発展途上には一杯あった。シーザーのガリア戦記一つ読んでも負けた側の戦士が奴隷としてローマ軍兵士に与えられたり、売られた事などが生々しく描かれている。
 しかしその奴隷までが開放奴隷として後に市民権を得て行く姿もローマ史で学ぶことが出来る。戦いに敗れた相手を許し、許すばかりでなくローマに有益と思えば科学者ばかりか敵の将軍にまでも市民権を与える度量の広さがローマ人にはあった。

話をローマの軍道に戻す。道路が出来るとローマの駐屯地が出来る。その結果として治安が良くなる。治安が良くなれば道路を使って物資が動く。それまで貧しかった土地も特産品を動かす事により昔より豊かになる。またローマ法で国家を運営したゆえ異民族にとってもローマの下にいた方が公正で安心でき、税金も10分のⅠ税だけとなると前の支配者より搾取も少ない。
 皆こぞってローマの下に付きたくなるのも解る。それゆえ北はスコットランド、南はモロッコやアルジェリア、リビア、エジプト、中近東、南ロシアまで版図を広げられたのであろう。

古代ローマから現代日本に目を向けてみれば日本は郵政や年金で揉めている。その年金も少子化が進むと破綻するかもとの事。日本の市民権をもっと外人に与えやすくするか、少子化でも純潔日本人で行くのかどうか、ローマの開放性と比較しながら識者と議論したいものだ。
    「アッピア街道 作ったローマはアッパレー」 てか
                         詰まらない落ちで失礼しました。

PS:写真は現在のアッピア街道

南仏のヌードィスト・クラブ

久しぶりに南仏をバスで走りならが25年も前のツアーを思い出した。ある視察ツアーでスペインの太陽海岸コスタデルソルから入り南仏のコートダジュール、北イタリアのリビエラに抜ける海岸線バスツアーである。

視察ツアーと言う事で中年の男ばかり30人位だったと記憶している。まだまだスペインの太陽海岸は今のような華やかさとは比べようも無い田舎で道路はもちろんリゾートマンションもポツポツと言う状態だった。
今でこそスペインは治安も西欧並みに悪く、物価も高いが、一昔前のフランコ時代は、つまりEC加盟前だが、観光客には天国の時代だった。堅苦しかったが物価が安く治安も良い「古き良き時代」のツアーの思い出だ。

スペインの太陽海岸から続く仏のコートダジュールそして伊のリビエラまでの海岸線も当時はニース、カンヌ、サンレモのような都市を中心とした、ほんの一部しか日本人には知られていなかった。まだ日本人観光客も少なく、古き良き時代にのんびりとバスで走った海岸線はいつまでも私の脳裏から離れない。

そのツアーはマドリ、パリ、ローマからお役人さんが1人ずつ付いてくれたと記憶してる。その中のパリの役人がとても話が分かる男で、我々が男だけなのをかわいそうに思ったのか、なぜか何回もパリと連絡を取っていたと思ったら、突然「明日、近くのヌードィストクラブに入れる許可を貰ったので、せっかくだから行って見ないか」とのお誘い。皆1も2も無く大賛成。他の視察を縮めても喜び勇んで行った。

場所は仏のコートダジュールの海岸でバカンスシーズンの最後だったと記憶している。バスで建物の中まで乗り付け、役人を先頭に服を着たまま歩いた。しかし日本人が行く事が分かっていたのか、皆ぞろぞろ出て来たのには驚いた。我々が服を着ているのを見ると、三々五々と散ってしまったのだ。
 彼等の姿や立ち振る舞いがとても自然で、恥ずかしそうでないのにも驚かされた。 恥ずかしいのはむしろこちら側で、堂々と寄って来られると、まともに見られない物なのです。若いカップルは勿論、年寄りのカップル、親子連れなど、皆前を隠さず堂々としていました。

金髪が多く大柄の白人が多かった事を思うと、北のゲルマン系が多かったと記憶している。どうやら太陽の少ない北の人ほどヌードに対して抵抗感がないと初めて知った。後に北欧へ行き少しでも太陽が出れば直ぐ裸になって焼いている彼らの姿を見ると納得した。

その当時デンマークなど夏は自国に居るよりもスペイン辺りの太陽海岸で1ヶ月過ごす方が安いという時代で、国が音頭を取って安いチャーター便をどんどん飛ばしていた時代だったが。
 勿論北の金持ち達のリゾートエリア憧れNO1は南仏コートダジュールである事は今も変らない。何はともあれこのヌーディスト村は良い経験でした。 

その後あるヌードィストクラブに入ったドイツ在住の日本人ガイド夫妻と話をする機会があったが、彼等の経験で面白い話を聞いた。白人は東洋の女性に対して変な先入観が有るとの事。男も女も子供までがあまりに奥方を見に来るので奥さんが嫌がってすぐ出てきてしまったとの事。
 この紙面では書けないが、東洋の女性に対するある種の蔑視であり、その偏見に私も聞いて驚いた。反対にジャポネの男性は浮世絵のお陰で過大評価されているらしいが、こちらの方はうれしい誤解である。

太陽が多い日本人にはヌーディスト村は要らないし、まだ体格的にも足を踏み込まないほうが無難であろう。
『ヌード村みんなで脱げは怖くない 』 てか 今日は落ちが格調低くなってしまった。

ベンチャー人コロンブスとイサベラ女王

イタリアのジェノバでコロンブスの生家を見たので、今日はコロンブスの話をしよう。1492年コロンブスがキューバ辺に到達した事は世界史が苦手な人でも少しは覚えているはず。
 時代は正にルネッサンスの真中。つまり理性的なギリシャ・ローマ文化が再び蘇がえって来た時代に生きた人。「地球は丸い」とのギリシャ哲人達の説を信じ、陸路で遠回りの東へ行かずに西へ船出して直接中国のシルク、インドの香辛料、黄金のジパングを目指したベンチャーな人である。

時代は着実に進歩する科学と反比例して宗教を束る教会が相変わらず迷信で民を縛り、脅かす (地球は平たく途中で落ちるとか、免罪符とか)ばかり。
 法王までが妾を持ち腐敗する時代。坊さんの言う事が段々と権威が無くなり始めた時代であった。教会の力と反比例して王や国家の力が強くなりイタリア都市国家などはその先陣を切って経済圏拡大に励む時代である。

コロンブスが生まれたジェノバはフィレンツェやベニスと同じようにイタリアの独立した貿易都市国家の一つであった。 
 コロンブスはベニスの組織力に後手を取らされていたジェノバ人。スポンサーが付かなかった原因は定かでないが、(転向ユダヤ人との説が有力。)ジェノバを去り、その当時大西洋、アフリカ航路では一番進んでいたポルトガルの王室に食い込み、北アフリカ横で東西に吹く偏西風の秘密を盗み出す。
 そしてポルトガルに拒否された西航路プランを持って隣のスペインに下りグラナダに残るアラブ人をほぼ追い出し終えた新興国スペインの王妃イサベラ女王の元にプランを売りに行く。

有名な話が有る。スペインでも断られたコロンブスがロバで隣のフランスに向かっていると、国境近くでイサベラ女王の使者が馬で追いつき連れ戻したと。もし彼が金持ちで馬にてフランスに向えば新大陸の富はフランスの物だったとの事。 
 上記の話は小説や映画的ではあるが、実話を言うとスペイン王家は隣のポルトガル王家の海洋開発事業に遅れを取り、かなり焦っていたと言うのが実情のよう。イサベラはすぐこのプロジェクトに関心を示したが、グラナダでイスラム教徒を追い出すドサクサだったので彼との接触が遅れ、なかなか会えなかったのがいつのまにかそんな噂になった。 
 将来グラナダに行く事が有れば、グラナダの中心広場にある二人の会見の像を観てこの話を思い出して欲しい。

グラナダ攻防戦の戦費でお金を使い果し、もう金が無い女王は船の費用を捻出するのに自分の宝石を売ったとの事。色々な噂が残っているが映画でも紹介されているので詳細は省くが一つだけ紹介する。
 初回の航海では3隻分の船乗りが集まらず一隻分は刑務所の死刑囚まで動員せねばならなかったとの事。そんな荒くれ男達を率いて何回も反乱寸前まで追いこまれながら成功させた彼のベンチャー心に注目し学びたい。
 ただ彼もアメリカでの行政能力の無さで不遇の晩年を迎えたが人生を悔いなく激しく生きた人には違いあるまい。彼こそベンチャーの先駆けと言ってよいだろう。
 それゆえ彼の名は南米のコロンビアという国の名に残り不滅に輝く。ただ彼が最後までインドの何処かと勘違したお陰でインディアンの名は残っても大陸命名の栄誉はフィレンツェ人アメリゴ(アメリカ)・ベスピッチに奪われたのは残念だったろうが。
 
地球が丸ければ東へ行かなくても西へ行けば、すぐそこにジパングの黄金や中国のシルク、インドの香辛料などがトルコやベニスの高い手数料、関税も払わず直接手に入る。実際に誰もが考え船出した人は数限りなかったろう。誰も帰って来なかったと言われる西への航海、日本の若者達にもそのトライに参戦させたかったと思うのは私だけであろうか。   
 
その後の歴史を見ると覇権は蘭、仏、英、米ソと移り、今アメリカの一人勝ち。アメリカの繁栄がこのまま続くか見守りたい。あのローマ帝国でさえ滅んだのが歴史である。
 
昔のように武力で国力を伸ばした時代と違いこれからは知価が国家を伸ばす時代へと変貌している。小国で繁栄を誇った英、蘭、ベニスのような先例もある。小国日本もチャンスである。チャンスの時代にこそ必要な物はベンチャー心と勇気であろう。若者よコロンブスやイサベラ女王の様にベンチャー心を持って恐れず前に向ってほしい。
 
本日のエッセイが親の苦労を知る2代目の戯言で終われば良いのですが。 我々の息子の代(3代目)には性格は良くてもぼんくらばかりで、中国辺りにペコペコするのではと心配で成らない。
             『売り家と 唐様で書く 3代目』てかー!
この川柳の意味が分かれば貴方は超一流の文化人と誇って良い。

PS:写真はコロンブスとイサベラ女王

ラマダンとは

イラクとの戦争で一躍ラマダンと言う言葉を知った人が多かったのでは。
イスラム教の5大戒律の1つと知っておいて下さい。ついでにイスラムの5つの大きな戒律①~⑤をのべよう。
① 1日5回メッカの方角に向かってお祈りをすべし。私には5回のお祈りも次のように聞えた。
朝=起きて働け。昼=食べて軽く休め。シエスタ終了=また働け。夜=夕飯だ。1日終り=寝ろ。
② お祈りの時:アラーは偉大な神で有り、マホメットは最後の予言者である事を言う〔原則はアラブ語〕
③ ハッジ:財力が許せば一生の間に1回は聖地メッカに行くべし。
④ 喜捨:お金持ちは貧しい人に喜んで施しをするべし。
⑤ ラマダン:今日の主題。富める者も貧しき者も等しく1ヶ月の断食をすべし。
 ただし本断食ではなく、朝日が出てから沈むまで何も食べず、飲まず。日没後食べてよい。一種の祭りである。この時期にアラブ圏を旅すると皆イライラしている事は確か。もっともお金持ちの王族の中には海外に出てしまう人が多いとか。私も何回か機内で着替えをし、西洋風のファッションで降りて行ったアラブの女姓を目撃しました。
 
本来マホメットが布教初期の時、敵に追われ逃げ込んだ洞窟の中で水と鳥の卵だけで1ヶ月飢えをしのいだのを忘れないためとか、皆一様に空腹感を分かち合う事で富めるものは貧しき者の事を考え自分を律するためとか、お互いイスラムの連帯を高めるためとかガイド達は色々言ってくれたが。
 どれも真実のようだ。だからこれだけ神聖なラマダンにミサイルをぶち込むのはクリスマスや復活祭にぶち込むと同じ感覚なので、アメリカも控えざるをえなかったのです。

でもこの時期皮肉な事に食料の消費量が他の月より増える事は有名。中東のバザールなどに行くと、夕方のお祈りに合わせ店の前の道にテーブルを出し皆で一斉に食べ始める姿はやはり何か胸打つ物がありました。そんな風景にトルコのバザールでは良く出会った。
 珍しそうに眺めていると、よく一緒に食べないかと誘われた。普段は食べる場所ではない店先の道路上で仲間と車座で食べる。祭りならではの光景である。皆空腹ゆえか食べ始めの時のなんとも嬉しそうな顔。まさにお祭りの顔になっていた。
 ちなみにイスラム諸国では今でも太陰暦を使っているので毎年少しずつラマダン開始日がずれて来る。彼らもこの祭りがずれて来て真夏にぶつかるとつらいとの事。 

ラマダン以外の戒律、例えば酒は飲むな。豚肉は食うな。4人までの妻はOK。少年の割礼〔ユダヤ人は生まれてすぐやる〕など日本人には分からない風習も多い。戒律もその宗教の成立過程を知り、砂漠の多い風土を見たり体験して始めて納得出来る事も有ります。例えば雪が降る北のイスラム国で酒を飲むイスラム教徒を時々見かけることなど。

イスラム国の中では親日的で日本の事を尊敬しているトルコから旅するとイスラムの国が好きにならないまでも、少しは理解出来るかも知れぬ。実際トルコを旅すると分かるがそのまま現地の人と結婚して住み着いている日本女性を他のイスラム国より多く見受けた。
 あの天敵ロシアを破った故か、巷にあふれる日本製品故か、ともかく日本人を尊敬しているのがうれしい。顔が西洋、心が東洋という国です。ヒッタイトの遺跡から、カッパドキアの奇岩、パムッカレの温泉、イズミールのギリシャ遺跡、有名な古代のトロイ遺跡、そして東西が交わるイスタンブールと毎日飽きさせない。

開祖マホメットの姉さん女房の言い伝えによると、彼の好きだったものは甘い物、香水、若い娘達だった由。晩年は4人ほどの若い女性に囲まれていたとの事。とても人間くさい開祖のようです。 

最後に世界3大宗教の3開祖が本断食〔40日間水のみで過ごす〕を成し遂げたと言う事実をご存知か。何か不思議を感じませんか。1ヶ月もやれれば、五感が異常に鋭くなり、手の先からすごい超能力が出るとの事。
 あなたも本断食して宗教家に成りませんか!そして麻原のようにハーレムを作って次のような説教でもしましょうか!
“若い娘よ、あなたの悩みは服を脱いですべてを開放すれば救われる”インシャラー(神の召すままに)
“年老いた娘よあなたの悩みは服を脱ぐと反って深まる 。顔まで隠しなさい”インシャーラー 
                落ちが少しセクハラ風に流れたことお許しあれ。

ワイン考2

ワインはなんと女性に似ている事か。そう奥が深く神秘的である。管理保管が難しい所などそっくり。よって飲む時は女房殿の取り扱いと同じくらい気を使いたい。殿方の多くは釣った魚に餌をあげなくなってしまうのが通常であろうが、何かの弾みで女性と高級レストランに行った時など、高いワインでも張り込もうではないか。き
 ざにならない程度にワインのうん蓄でも述べて貴君の格を上げよう。そんな時の楽しい会話ツールの一つとして以下をお読み有れ。

ワインの造り方
ブドウの収穫
収穫前に太陽が当たる事が必要。太陽によるブドウ糖濃度の濃さで殆どのワインの良し悪しは決まる。  ワインのラベルの年数に注意せよと言うのはこれです。
 南の暑いローマでも緯度は函館と同じゆえ欧州のぶどう園は棚形式ではなく太陽が沢山当るような垣根式が一般的。そして熟れたら変な虫が付く前にブドウ(娘)は収穫すべし。

ブドウを搾る
搾る時、熟した房や粒まで選んで搾るので有名なワインはドイツのアウスレーデやシュペートレーデなど。これは知って置きたいドイツ語タームである。女性も良い女を選別するべし。やはり素材は重要である。

ブドウ液の発酵
赤はブドウの皮(粕がオリになる)と一緒に発酵。白は搾ると同時に皮は捨てブドウ液だけで発酵させる。これを一次発酵と言い、1~2ヶ月くらいでブドウ糖がアルコールに化学変化する。黒ブドウの絞った皮を一緒に発酵させ、その皮がオリになるがその皮を早めに取り出すとローゼになる。
ワイフは濃厚の赤ワインのように、娘は少々の皮(男)と一緒に発酵させてローゼあたりにし込むのが良いか。

2次発酵
熟成とも言うが1次発酵のブドウの絞り粕を捨て、別の樽に移して最低半年位は寝かせる。ビンテージ物などは最低でも2年くらい寝かせるワインも有る。
うちの娘もじっくりと寝かせて教養を身に付けさせたいのだが、太陽が良く当らなかったせいでヌーボ状態。
 ボージョレ(村の名)ヌーボ(新)とは1次発酵が終わってすぐ瓶詰めにするワインで、2次発行させない若いワイン。でも世の中やはり濃厚より青く若い方が良いなどと言う外道もいますわな。
 ヌーボワインはワインとしては外道の酒なのです。フランスでは300円~500円で飲む安い酒。やはりワイン(女性)は熟れていませんと。

貯蔵
熟成する場所。ワインは暑さに弱いので直射日光の当らない15度前後の穴倉が理想。少し湿気も欲しい。
そばに変な臭いの無い事。揺らさない事などなど。赤はこれらの条件下ならば置けば置くほどビンでも熟成が進む。
よって高級レストランで地下から持って来た時、ラベルにカビが生えたようなワインは最高です。
正に深窓の令嬢です。だからうちの娘もワイフも余り表に出さず床の間に飾ったまま熟成させるのです。
防腐剤
ワインは放っておくと酢になるので痛まない様に防腐剤を入れる。これが少なければ少ない程飲み易く、 二日酔いが少ない。まれに色々な男と付き合った女性にすばらしい人がいるが、余り多くはないだろう。余計な物が入っていない女性の方が安心だが傷みも早い。vワインも女性もデリケートなのです。
ワインの選択
この頃ワインはアルカリ性ゆえ痩せるだの、ポリフェノールが多く健康に良いだので飲む人が増えて来たが、甘いワインと食事はあまり合わない。食事には辛口をお薦め。女性も見た目で選ばず中身で選べという事か。

仏ワインの2大ブランド
ボルドー
1種類のブドー液ではなく何種類かのブドー液をブレンドして発酵させる。初心者には少し樽の臭いに
違和感があるが、慣れると癖になる。有名な所ではマルゴー、ロスチャイルドなど(仏語=ロッシイルド)。
ブルゴーニュ
通常ピノ・ノワール種などの1種類のブドー液で醸造する。
癖が無いので、飲み易く、初心者の赤にはこちらを勧める。英語風に発音するとバーガンディー。開口腱さんが好きだった幻の銘酒「ロマネコンティ」(酒屋で最低20万円位から)で有名。

上の知識でキザにならない程度にレストランで2時間は過ごせるでしょう。スペインやイタリア、ドイツまで語ると一晩掛かるのでこの辺で。
素適な人とのディナーなら、屋台のラーメン屋でも私は一向に構わないのだが、向こうが構うでしょうな。          
 『へいお待ちー ラーメン2丁に、ロマネコンティ一本  ン?』
 これじゃー2時間もたねーてか!

トルコのガイド2人

先日私がわらじを脱いでいる会社に、昔一緒に仕事をしたトルコのガイド(男性)が2人してひょっこり訪ねて来てくれた。トルコの大地震でめっきり観光客が減り、暇になったので、ルック関係者のつてで新宿の超高級ホテルを1日一部屋8千円弱で泊まり、日本語の勉強、ルックツアーのプランニングの手伝いらしい。
 彼らもこれが初訪問ではなく、全て自費なので、物価の高い日本では大変だと思うのですが。何回も来たくなる彼らの本当の目的は日本女性に有ると思っているのですが。
 
まあともかく彼らの『もて方』というのは羨ましいの一言。何故かとつらつら考えて見るに、外見は完全な白人、心が半分日本人。これに尽きる。東洋の人は本能的に白人の異性に弱いのですが、言葉の問題、自己主張の強すぎる部分(つまり性格)などで我々にも十分勝つチャンスは有るのですが、この2つまでクリアーされてしまったら(つまり日本的な感覚まで持たれてしまったら)平均的な日本の男なら、素直に降参。それはねーよな~と言うしかあるまい。

久しぶりに話が弾んだのですが、一番印象的な事は、一生懸命トルコはイスラム国ではない事を強調していた。この国の知識人達(ガイドはトルコではかなり知識人レベル)もEUに入りたくて結構無理してるなーと感じました。
 日本人がお寺に行かないから仏教徒で無いとは外人は考えないだろう。それの反対と思えば納得していただけるだろうか。日本人は仏教で愛と浄土を、儒教で忠孝や礼節を、神道でよろずの神や穢れを、つまり習慣や行事の中から、そのアイデンティテーをなんとなく身につけている世界でも珍しい中庸な民族と言える。

私に言わせればトルコなどはイスラム教にどっぷりとまでは言わぬが、かなりの生活習慣にイスラムの影響を受けている国と断定して良い。よって彼等はイスラム国と十分に言える。さもなくばもっと早くEUに入れたはずです。良い例が欧州の高度成長時に入った出稼ぎ人が残ってしまったドイツ。
 ドイツのあちこちにトルコ村が出来、問題が起きている事は皆もTVなどで見ているでしょう。女性は髪を隠すスカーフを使うので、ドイツの女性は冬でも頭にスカーフをやらなくなった。キリスト教の行事に参加せず、仮のモスクを作りそこに集まりコミュニティを作る。摩擦は起きるべくして起きたと言える。

でもトルコは地政学的に見ればヨーロッパには必要不可欠なので、ロシア側に取り込められる前にNATOに取りこんでしまった。それゆえ今度はEUである。トルコサイドではこのガイド達のように知識人はEUに入れば豊かになる事は皆知っている故、必死にトルコは西洋だ西洋だと強調するのだろう。
 ロシアには何回も戦争で領土を取られているので、間違えてもロシアとは手を結ばないと思うが、隣のギリシャ(EUメンバー)とはキプロス島問題と言うより、隣の家との間に良くある、本能的な犬猿の仲。それに加えて欧州主要国のイスラム教嫌いがトルコのEU入りを阻んでいる。
 それ以上に宗教の違いと言うのは大きい。確かに今のイランや中東やアフリカのイスラム国を見れば宗教を政治から離すという事が、いかに難しいかを分からせてくれる。しかしそれをこの国でやった男がいる。

その人の名はケマル・アタチュルコという。この男は間違いなく20世紀の英雄の1人であろう。1次大戦の末期ギリシャ、英、仏、伊の連合国に国を滅ぼされる寸前に今のトルコの大きさをともかく保った(勿論昔の大国ではないが)。正に救国の英雄です。若き日のチャーチルを追い返した男と言えば少しは納得しますでしょうか。いつの日かトルコに行ったら必ず彼のお墓を見て、数々の写真から彼の目の輝きの凄さを見て欲しい。
 政教分離を始め、アラブ文字をローマ字化したりなど、全てを西欧化した人物です。今なら確実に暗殺されていたろうが、彼はまともに死ぬ。もしトルコがEUに入れたら、それはすべからくケマルのお陰であろう。

この国の魅力に取り付かれた日本人の多くが言う。「ロシヤを破ったと言う事やハイテク商品の凄さから、日本人には尊敬の目で接してくれる。」と。
 日本人にとってイスラム圏として快適に旅ができる数少ない国であろう。温泉や、奇岩の自然、踊るイスラム教、トロイの木馬、ギリシャローマ遺跡、東西のぶつかるイスタンブール。ヨーロッパに物足りなさを感じたら、ここを旅する事を進める。
『お嬢さんたち~ トルコ風呂ばかりじゃないんですよ~』
 また落ちが下品になってしまった。ごめんなさい